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コラム

80歳を迎える大間々の電話
−磁石式壁掛け電話機−

「お父さん、この手で回す電話機、きのうテレビで見たよね」
「このハンドルを回してね、交換手を呼び出すんだよ。受話器をあててごらん」
これは民俗展示室に展示した電話機の前での光景です。

<飛脚から電信・電話へ>
電信・電話の開通する以前の通信手段として、江戸時代に確立したのが飛脚でした。経済的に重要な都市の間は、定飛脚(じょうひきゃく)という毎月決まった日に往復する飛脚ができています。「山田郡誌」は江戸後期(文政3年=1820年)の江戸定飛脚問屋の史料により、桐生-大間々には毎月3度もの飛脚の往来があったと述べています。これは当時の桐生・大間々地方が絹や生糸の取引で、重要な位置にあったことを示しています。

欧米の近代文明を取り入れるにあたり、明治新政府がまず着手したのが電信の開設でした。しかし、一部の区間で電信が開通しても飛脚は以前のままで、政府の公文書まで民間の飛脚が運んでいました。その後、官営の郵便が開業し、郵便網が全国を覆うに至り、明治6年5月飛脚の営業は禁止され、その長い歴史の幕を閉じました。なお、街道を走る飛脚のユニホームだった胸当てが「銅山街道のコーナー」に展示してあります。

日本における電話事業は郵便よりもさらに遅く、明治23年12月、東京-横浜間で電話交換を開始したときにスタートしました。その後、大間々で電話の通話が始まったのが明治42年12月のことですから、今年はちょうど80年にあたっています。

日ごろ、何気なく使っている電話機も、この100年ほどの間に大きく移り変わりました。民俗展示室の「電話機のコーナー」でもその一部を展示しています。

【画像】
明治時代の姿をとどめる電話室

<1ケタだった電話番号>
大間々で民間に電話機が普及した最初のころは、町内に16台しかありませんでした。三区の野口喜平さんのお宅には、その当時のままのアンチックな電話室が残されており、そこには「電話五番」と一けたの電話番号が記されています。
はじめに親子が話題にしていた電話機はデルビル磁石式壁掛電話機といい、明治29年から昭和40年ころまで約70年の間使われたものです。磁石式とは呼電話機に磁石発電機が内蔵されていて、これを手で回して交換機の表示を作動させたものです。

しかし、磁石式交換機は多数の加入者を持つ電話局には不向きであったため、明治42年ころから、次第に通話に必要な電源をまとめて交換機側に設置した共電式交換機にバトンタッチしていきます。コノドント館では、九区の藤生素三さんに提供していただいた壁掛型と卓上型の2台の2号共電式電話機を展示しています。この型式は本格的な共電式時代を迎え、国産化した最初の共電式電話機で、明治42年ころから作られ、自動式交換機が普及するまで中・大都市で使われていました。

欧米の先進諸国ではまず鉄道が開通し、その安全な運行のために電信(後には電話)が敷設されました。このように、鉄道と電信・電話は切っても切れない関係でした。コノドント館の屋外展示では、わたらせ渓谷鐵道に提供していただいた、足尾線で使用した「鉄道電話」を、レールやトロッコなどと共に移設してあります。こちらもぜひご覧ください。

Script:竹内/広報おおままNo.19(平成元年10月)




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