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絵はがきに見る昔の大間々 |
−『写真が語る大正・昭和』展に関連して− |
新春のコノドント館では、「古き良き大間々」を思い起こしていただこうと、さまざまな写真や関連資料を展示した、ミニ企画展『写真が語る大正・昭和』を開催しています。今回は、町民の皆さんのご協力による新発見資料も展示することができました。
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| 昭和初期の中央通り |
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| 大活人形絵はがき |
<絵ハガキと写真>
写真は絵に比べ、正確で客観的な情報を伝えてくれます。戦後になって一般庶民にカメラが普及する以前は、写真絵ハガキが名所や旧跡の感動を伝える重要な手段とされていました。日本で私製の絵ハガキが広まるのは日露戦争の慰問用とされてからですが、明治から昭和初期の写真絵ハガキは、近代史を知る上で貴重な資料と言えるでしょう。そこで今回の企画展を機会に、コノドント館で所蔵する大間々の絵ハガキ類を再調査してみることにしました。
関東の耶馬渓(やばけい)と賞賛された絶景高津戸峡は、整備され観光地が少なかった時代に、鉄道の駅に近いという交通の便の良さなどから、観光地として大いににぎわっていました。高津戸峡を眼下に見下ろす「ながめ遊園」も、春の牡丹(ぼたん)、秋の菊が有名でしたが、昭和12年には本格的な芝居小屋「ながめ余興場」が完成し、菊人形でも知られるようになります。そうした時期、大間々町内の写真業者も自ら絵ハガキを作成し、周辺の売店で販売していました。
<高津戸峡は群馬の名所>
『大間々名勝』というタイトルの8枚の絵ハガキがあります。これを発行した「山田屋」は三丁目の大通りに面した菓子店です。絵ハガキの写真は先代の主人石原武雄が撮影したらしいとのことで、昭和15年ごろまでは販売していたようです。山田屋の絵ハガキに関しては、今でも大間々の歴史に関心のある方からの問い合わせがあるそうですが、写真原版も残っていないとのことでした。
『大間々名勝』には、高津戸峡やながめ遊園などのほか、町の中央通りなどの写真も入っていて、商店の建物の配置から昭和初期の街並みと分かります。興味深かったのは、高津戸峡を写した一枚に「群馬縣十二景ノ一高津戸峡ヨリ赤城山ノ遠望」とあることです。高津戸峡を群馬県十二景の一つとした根拠はどこにあったのでしょうか。ご存じの方はぜひお知らせください。
<壽賀写真館とイセブ商店>
次に手にした『大活人形繪はがき』には、ながめ牡丹園が当時の人気映画の名場面などを人形で再現したものが写っています。「電力水力応用」と書いてあることから、牡丹園ではこれらの人形を様々な仕掛けで動かしていたのでしょう。この絵ハガキは、現在の三区集会所の隣で営業していた「壽賀冩眞館(すがしゃしんかん)」が製作したものです。この写真館は、昭和29年まで寿賀盛哉が営業していたそうです。
さて、三つ目の絵ハガキ集には、今のバイパス通りの東側にあったという、藤の花園で有名だった「見晴の湯」などの写真が入っています。この絵ハガキを製作した「イセブ商店」は、現在のコノドント館の南隣にあった、「伊勢武」という屋号の商店のことと推測されます。六代目の伊勢屋武平(小林武平)については、平成元年1月号の広報『大間々最初のカメラマンは?』で述べたように、明治時代に写真を趣味としていたハイカラな人でした。
武平は明治34年に亡くなりますが、後を継いだ長男の小林準一郎もカメラ好きだったと聞いています。伊勢武の営業品目の一つに加えられていた絵ハガキの刊行ですが、伊勢武の一族は準一郎の代で東京に転居しており、絵ハガキの製作・販売もここでストップしたものと思われます。
今回の調査で、昭和20年代までの大間々町には、少なくとも3店の絵ハガキ業者があり、観光地としての大間々を大いにアピールしていたことが明らかになりました。情報をお寄せいただいた関係者の皆さんに深く感謝いたします。 |
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Script:竹内/広報おおままNo.278(平成9年1月) |
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