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コラム

甦った「つるべ井戸」
−大間々の井戸−

「昔は毎日、こうやって水を汲んだもんだよ」。
「あたしも娘のころ、風呂(ふろ)に入れる水を汲まされたよ」。
民俗展示室に復元された「つるべ井戸」の井戸綱を引きながら、2人づれのご婦人は昔を思い出すように語ってくれました。

<嫁にいくなら大間々およし>
大間々町の市街地は扇状地の扇頂部にあたり、かつては川原であったため、地下水位が非常に低く、水を汲み上げるためには場所によると20メートルもの深さの井戸が必要でした。渡良瀬川がすぐわきを流れていながら、水の確保に苦労した大間々の人々は、その歴史の中でこの地方独特の民俗をつくり上げてきました。
例えば以前、「嫁にいくなら大間々およし、田なし、水なし、井戸深し」という言葉があり、水を汲むのに大変苦労するから大間々へはお嫁にいくなとまでいわれていました。井戸の思い出を語ってくれたご婦人たちも、娘のころにこのことを聞いていたのかも知れません。

【画像】
桐原上の台で発見された石碑

<井戸組合の石碑>
「井戸掘るか、蔵造るか」といわれたように、井戸掘りに大金を必要とした大間々では、井戸をもつことができたのは資産家だけでした。そのほか人々は共同で一つの井戸を使い、井戸組合をつくって水の出の悪くなったときの井戸替えや、井戸綱の交換、周囲の清掃などをしていました。
つい最近、江戸時代の井戸組合に関する貴重な資料が、桐原上の台の大日堂近くで発見されています。それは、「良源寺」とある下に、井戸与(組)合18人の名が刻まれた石碑で、ほかでは見つかっていないものです。

井戸組合は大家と店子(たなこ)といった間でつくるのが自然でしょう。この石碑には別格として、「地主弥次右衛門」とありますから、この組合は地主と借地人(または借家人)とで構成していたものと思われます。また、一つの組合で共同して屋敷稲荷をまつり、井戸が即氏子となった例から考えて、この碑を建てた人々も寺の檀家であったのでしょう。
ところで疑問となるのは、この石碑が何を意味するかです。発見者の黒島二郎さんがいわれるように、檀家の18人が井戸を掘るために組合をつくり、その完成の喜びで石碑を建てたのかもしれません。あるいは、井戸とは関係なく、良源寺の吉事を記念して建てたとも考えられます。しかし、これを記念する資料は全く残っていません。
良源寺が開かれたのが承応2年(1653年)であると伝える古文書はありましたが、この石碑に享保12年(1727年)とあったことから、良源寺の存在がこの年まで確実にさかのぼれることが証明されました。「まぼろしの寺」に光を当てたという点からも、この石碑発見の意義は大きかったのです。

校外学習で見学にきた小学校の先生からの礼状に、子供たちに感想文を書かせたところ、つるべ井戸を体験した感動を書いたものが多かったとありました。
私たちは、これからの博物館は、ただ古いものや珍しいものを飾って置けば良いとは考えていません。人々の心に感動を呼び起こし、物事を考え探求する喜びをもってもらえる、そんなコノドント館であり続けたいと思っています。

Script:竹内/広報おおままNo.187(平成元年6月)




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