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大火の多かった町 |
−黒こげの百味箪笥(ひゃくみだんす)− |
大間々銀行が倉庫として使っていた土蔵の二階は、今その趣のある造りを生かした「民俗展示室」として、見学者の皆さんを迎えています。
この部屋の一番奥の「大火と消防」のコーナーに、小さな引き出しのたくさん付いた黒こげの箪笥(たんす)が展示してあります。なぜだと思いますか?
江戸から明治にかけての大間々は、実に大火の多い町でした。「山田郡誌」に載っているだけでも、数10戸から2〜300戸焼けているという大火事に、8回も見舞われているのです。
大間々は水が得にくい地形に加えて冬季の強風があり、一度火の手が上がると、軒を接する風下の街並みが総なめになってしまう恐れがありました。人々はこうした大火との戦いの中で、郷土愛や仲間意識を育ててきたのかもしれません。大火は、大間々の民俗を知る上で忘れてはならないものの一つです。
明治28年に273戸消失したのが明治時代では最も大きかった火災で、その際、四丁目の河内屋(岡醤油醸造/おかしょうゆじょうぞう)が醤油をかけて火を消し止めたというエピソードはしばしば語られています。
展示してある「箪笥」もこのときに火災になった三丁目の清見医院のもので、黒く焦げているのは大火に遭ったためだったのです。
この箪笥は漢方医が薬剤を入れておくのに使ったもので、2つ1組で100個の引き出しが付いていることから「百味箪笥(ひゃくみだんす)」と呼ばれており、中には当時の漢方薬が入ったままです。清見さんの話では、明治の初めに初代の医院長が使っていたものなので、焼け焦げてしまったが記念に残しておいたとのことでした。
明治16年に医師免許規則が制定され、その後は西洋医学を修めたものでなければ医師の資格がもらえなくなりました。しかし、それまで我が国の医学はほとんど漢方医に頼っており、そこで蓄積された医学的知識はたいへんなものだったでしょう。この百味箪笥を使っていたということは、明治の初めの大間々で医院を開業していた清見さんのご先祖は、西洋医学はもちろん漢方医学にも十分の素養があったと考えられます。
今回紹介した展示資料は、明治時代の医者の道具という点でも重要なものでしたが、大火をくぐり抜けて残った証人という形で登場を願っているというわけです。
また、大火の写真や絵がまだ見付かっていません。もしお持ちの方は是非コノドント館までお知らせ下さい。 |
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Script:竹内/広報おおままNo.179(昭和63年10月) |
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