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関東の円空世界 |
−特別公開展「銅山街道の円空」から(3)− |
今回の『銅山街道の円空』展では、全国の円空仏も紹介しており、群馬以外では隣接する埼玉・栃木両県のものに重点をおいた展示となっています。
<怖くない十二神>
それまで知る人も少なかった円空仏に、人々の目が注がれるようになったのは、昭和30年代のことでした。そのころ関東地方で確認されていた円空仏は、すべて合わせても10体に満たなかったようです。それが、その後の円空人気や芸術的評価の高まりとともに数が増え、現在では関東地方全域で150体にもなっています。中でも埼玉県は、130体を越える円空仏が発見されるなど、円空の信仰世界がうかがえる重要な地域となっています。
埼玉県における数の多さは、円空の活躍の根拠地とされる岐阜や愛知を除くと、全国的にみても他を圧しています。埼玉県内の分布状況をみると、大宮市・蓮田市を中心とする県東部への集中が分かります。特に大宮市には60体以上もあり、島の薬王寺や中野の正法院を中心として、将軍のいる江戸と東照宮のある日光を結ぶ「日光御成街道」沿いに点在しています。また蓮田市の南学院などもこの街道筋にあります。
多くの円空仏が所在する埼玉地方には、単独の像があるだけではありません。大宮・薬王寺のように、本尊の薬師如来と日光・月光菩薩(ぼさつ)の薬師如来像三尊像、これに従う眷属(けんぞく)の十二神将まで、セットで造像されたものも残されています。これら薬王寺の像については、企画展でも大型の写真パネルで展示されています。
「十二神将」とは、薬師如来の信仰者を必死で守る十二の神々のことです。仏法の守護神ですから、京都の古刹(こさつ)にある像のように、天衣甲冑(かっちゅう)を着け、武器を持ち、激しい怒りを全身で表す怖い顔の像のはずです。しかし、厳(いか)つい顔が十二も揃(そろ)いながら、薬王寺にある円空の十二神将からは、恐ろしさが感じられません。この時の「円空さん」は、威圧するような像を彫りたくなかったのでしょうか。
<日光と円空>
栃木県内に伝わる円空仏は9体が確認されていますが、ほとんどが日光山に集中しています。前にも述べているように、ここは大間々に滞在して造像した円空が、次に向かったと考えられる場所です。
日光は奈良時代末期に勝道上人が開いたところで、古代から信仰の地とされていました。江戸時代に入ると、徳川家康の霊所である東照宮参詣(さんけい)のための街道として『日光街道』や『例幣使街道』が発達し、宗教都市としての日光は大いに賑(にぎ)わいをみせます。しかし、円空が日光に足跡を残したのは、古来からの伝統をもつ日光山修験との交わりによる自己研鑽(けんさん)が目的であったのでしょう。
日光には輪王寺の阿弥陀、清滝寺の不動と2つの童子、中禅寺立木観音堂の薬師と不動、それに吉新家(旧明覚院蔵)の白衣観音の7体があります。また、鹿沼市の広済寺に安置されている十一面観音も日光から移されたものです。さらに、足利市永宝寺の聖観音もまた、日光との往還時に造像されたもののようです。
広済寺の「千住観音像」の場合は、千手のうち側面から出る手が、臍穴(ほぞあな)にはめ込まれる造りとなっています。円空仏はほとんどが完全な一木造で、この手法を採用した円空の作品は極めて少ないことから、円空の造像技法を知るうえで貴重な仏像とされています。
円空の青年時代は徳川幕藩体制の確立期にも重なります。この時期は、今でいう住民登録のような寺請制度が徹底されるなど、仏教が幕府の政策に取り込まれ、伝導を行う必要がなくなった時代といわれます。こうした時代背景の中で、ノミを片手にあえて修行と布教の旅に出た円空を、僧として認め、温かく受け入れる人々のいた理由は何処(どこ)にあるのでしょう。
大間々の円空仏は、永劫(えいごう)の微笑(ほほえみ)をもって、その問に答えているようです。 |
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Script:竹内/広報おおままNo.259(平成7年6月) |
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