トップページ > 博物館コラム > 「ひげ仙人」と慕われた博物学者

コラム

「ひげ仙人」と慕われた博物学者
−考古学の先駆者岩澤正作−

「あのヒゲのじいさんのことかい」と懐かしそうに岩澤正作のことを話してくれる人は、もうほとんどが60歳を越えるようになっています。
「子供のころ、しょっちゅう遊びに行ってたよ。土器とか石っころとかゴタゴタいっぱいあってね」「赤城山には何回も連れていかれたなぁ、脚絆巻いてね。あの先生足が強えんだ」などと思い出を語ってくれる人たちの顔には、町内にいた物知りのおじいさんを思い出すかのような親しみがあふれていました。

<大間々で開花した才能>
明治9年、神奈川県の農家にうまれた岩澤正作は、東京や四国の高松などで教師を務め、明治35年に旧制前橋中学校の博物学の教師として群馬に赴任してきました。
その後、大正3年、大間々共立普通学校(今の大間々高校の前身)に転任。博物・農業・漢文を教え、以後昭和13年に63歳で退職するまでの25年間、ここで教鞭(きょうべん)をとることとなりました。妻の実家もあり居心地が良かったからか、昭和19年に亡くなるまで大間々に居を定め、多くの生徒を教育したほか、現在でも評価の高い雑誌「毛野」を刊行して、県内に数多くの郷土史家を育てました。正作の研究や著述の大部分は、この大間々時代になされています。
学問が専門化してしまっている現在では考えられないほど、正作の研究領域は幅広く、そのころ博物学と総称されていた植物・動物・地質から始め、考古学や文献史学にまで手を伸ばしています。こうした研究の成果を集大成したのが、昭和14年に刊行された「山田郡誌」の考古学研究と史蹟名勝天然記念物部門で、これは当時の郡村誌ではずば抜けて優れていたといわれています。

【画像】
自筆の原稿用紙

<博物館への夢>
大間々に来てから始めた考古学研究は、正作の業績の中で最も高く評価されています。群馬で「縄文式土器」という言葉を最初に使い、昭和の初めには縄文土器の型式編年(文様や形態の違いで、その土器時期を判定する決め手とする研究)という、当時の学会動向を先取りした方法で研究を進めるなど、正作は「群馬県考古学の先駆者」として知られています。二女の三千枝さんが保管していた記念写真には、八幡一郎をはじめ、その後の日本考古学会をリードする少壮の学者たちの顔が見え、正作の交友の広さがうかがえます。

研究のため収集した土器や石器などは、現在のコノドント館のすぐ近くにあった借家書斎兼物置小屋に並べ、「三山閣(さんざんかく)」と名付けて生徒や来客に開放していました。ところで、この三山閣については大きな夢があったようです。
「図書館と博物館は文化の双眼である」と主張していた正作は、群馬県に博物館が一つもなかったのを嘆き、私設博物館三山閣の設立を計画していたのです。しかし資金面で思うにまかせず、計画は実現しませんでした。

俳句も詠んでいた正作が号を「四拙(しせつ)」としたのは、字が下手、金儲(かねもう)けが下手、社交が下手、口が下手と自分を評したからでした。また、家庭のことは妻に任せっきりで、身なりにもまったく無頓着(むとんちゃく)だったそうです。しかしその人柄とともに、仙人のような長いヒゲと、無邪気な笑顔にひかれ応援する人も多かったようです。
県下でも指折りの学者でありながら偉ぶったりせず、だれにでも知識を分け与えてくれた人。そんな人に子供時代に出会ったなら、その後の人生が変わってしまうかもしれません。ちなみに、遊びに行っていた子供たちのなかには、後にコノドントの研究者となる林信悟さんもいたということです。

Script:竹内/広報おおままNo.190(平成元年9月)




↑ページのトップへ