近年、日本の近代化の足跡ともいえる建物や施設が近代化遺産として注目され、保存と活用への方策が各地で模索されてきています。しかし、建造物を設計した人物についての関心は低いのが現実だったようです。
今回は、現在コノドント館で開催中の旧大間々銀行竣工八十周年記念展『夢二・哀愁とモダニズムの時代』に関連して、大間々銀行(現コノドント館)を設計した小林力雄の建築家としての優れた業績や生涯について紹介することにしましょう。
<建築家か文学者か>
明治6年、旧館林藩士の家に生まれた小林力雄は、明治12年(6歳)から館林東学校で学び、明治18年(12歳)に館林から横浜に出て横浜学校・同高等で学びます。

小林力雄肖像 |
明治19年、13歳になった力雄は横浜で土木新築御用掛(ごようかかり)の清水満之助方に雇われ、以後19歳ころまで横浜や東京で建築関係の仕事を学びながら会計簿記や英語の勉強に励んでいます。こうした時期に力雄は、明治21年に東京築地の工手学校(現・工学院大学)に入校しているそうです。この学校は洋風建築の高度な専門技術者を養成する目的で明治20年に創設されたもので、講師陣は東京帝国大学出身者がほとんどでした。
最近、子孫である小林昭一郎・英子夫妻から寄贈された資料によると、力雄は明治24から25年ころ「楓園」というペンネームで小説を書いては、郷里の2歳上の先輩である文豪・田山花袋に送り、花袋も文壇の様子や力雄の作品への批評などを書き送っていたことが、花袋からの書簡によって判明しました。意外にも文学者になる夢を抱いていた青年時代の小林力雄でしたが、結果的にその後は建築家としての道を歩むことになります。

大間々銀行応接室 |
<西洋館の設計手腕>
小林力雄が建築設計の仕事を本格的に始めたのは、東京で小川建築事務所(後に小川組に改組、現在は小川建設に改称)が創業した明治43年(力雄36歳)ころからのようで、この年に建てられるレンガ造りの四十銀行足利支店の設計を担当しています。これ以後、力雄が設計した主な洋風建築として、大正5年に桐生の第四十銀行本店(合併を経て第一勧業銀行桐生支店となる)が竣工します。大正6年には太田(当時の新田郡太田町)の新田銀行、桐生撚糸株式会社事務所、足利銀行桐生支店と相次いで設計した建物が完成しています。さらに大正10年に新築の監督設計をしたのが、今年で80周年目を迎えた大間々銀行本店(現コノドント館)でした。

四十銀行本店
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このように大正期の両毛地方を中心に幾つもの優れた洋風建築を設計していながら、現在では小林力雄の名前を知る人はごく一部の人になっています。桐生の西洋館として威容を誇っていた第一勧業銀行の旧館(旧四十銀行本店)が惜しまれつつも建て替えで消滅したように、小林の設計した洋風建築のほとんどが姿を消しており、現在では《旧大間々銀行》が近代化遺産を活用した博物館として残されているのみとなってしまいました。
当時、小林力雄が建築家として名声の高かったことを物語るエピソードがあります。それは桐生倶楽部会館(現存する近代化遺産)の建設にあたってのことで、手腕や実績が買われて「設計は小林力雄に…」と指名されたそうですが、工費の面で折り合わなかったことから別の設計者になったとのことです。また、第四十銀行本店(桐生)の新築移転案内書や大間々銀行本店の棟札などでは、小川組初代社長と併記して「工事設計監督者(技師)小林力雄」と明示しています。こうした表記の仕方は、小林力雄という人物が勤務する建築事務所でも設計者として別格の存在だったからでしょうか。
昭和2年9月8日、小林力雄は東京で脳溢血により54歳の若さで倒れます。彼の建築家としての力量や実績、年齢から考えて、その後さらなる飛躍が期待できただけに惜しまれる急逝でした。 |