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土器が語る縄文人のメッセージ |
−企画展「縄文土器の世界」から− |
縄文人の生活や文化は、学校で学ぶ日本史の教科書でも初めのころに登場していますから、縄文土器を見た記憶がないという人はほとんどいないでしょう。
縄文土器は古代の人々にとっては日常の什器(じゅうき)にすぎなかったかもしれませんが、現代人から見ると一個一個が芸術作品のように感じられます。この縄文土器の魅力は、変化に富んだ文様の素晴らしさに尽きるでしょう。素朴ですが、後の時代の弥生土器や土師器(はじき)にはない、制作者の精神のほとばしりを感じさせる力強さがあふれています。
<土器に顔がある?>
「この土器の模様、人の顔みたいだ!」
少し前のことですが、コノドント館の縄文土器に見入っていた初老の紳士が、感動したように小さく叫んでいました。
コノドント館で常設展示していた、この大間々の瀬戸ヶ原遺跡の土器は、今から4千年以上さかのぼった縄文時代の<中期>のものです。中期は縄文時代の中でもさまざまな用具や技法を用いた文様装飾が、たいへん発達した時期です。紳士の見ていた人体をモチーフとしたかに見える文様をもつものをはじめ、多くの皆さんが頭に浮かべる、最も縄文土器らしい土器が作られていました。
たくさんの研究者の努力の結果、縄文土器の形状や文様は時期によって違っていることが分かってきました。そして、まるで年表のように時期の順に土器を並べることもできるのです。瀬戸ヶ原で出土した土器についても、この方法で検討したところ、中期の前半から末まで各種の型式の土器のあることが判明しました。すなわち数百年に亘(わた)る長い期間、この地が縄文人の生活の場になっていたということを、土器によって知ることができたのです。
群馬における縄文中期の土器は、地域によって特色をもったものが作られた前半の時期と、どこでもよく似た土器の作られるようになった後半とに大きく分けられます。そして近年、研究者たちの間で関心を集めているのが、地域色のあるものから均一化へ向かう過渡期の土器です。この<トレンディーな縄文土器>については、瀬戸ヶ原遺跡出土の土器にもちょうどこの時期の優れたものがあり、整理していて気になっていたところでした。
<重要文化財を展示する>
「考古学の先駆者として知られる、岩澤正作先生のおられた町なのだし、いつかは考古学の企画展を・・・」とは、かなり以前から温めていたことでした。しかし、所蔵する資料だけでは質量共に足りません。
各方面に打診をしてきたなかで浮上したのが、考古学スタッフの充実した群馬県埋蔵文化財調査事業団などとの共催案です。瀬戸ヶ原遺跡出土の土器を活用するという意味から希望した、縄文土器に関する展示会が、こうして実現に向けてスタートを切ったのです。
その後の話し合いのなかでは、「メインの土器として、重文(国指定の重要文化財)も何とかして展示したいですね」といった積極的な言葉も聞かれました。県立規模の博物館以外ではほとんど実現していない重文の展示について、国から許可をもらうのは難しいというのが大方の見方でした。しかし、この難問も関係者の尽力で無事クリアーでき、大間々の12点を含め県内全域から約百点ほどの素晴らしい資料が出品されることとなりました。以下、ごく一部ですが紹介してみましょう。
まず何といっても堪能していただきたいのは、房谷戸遺跡(ぼうがいどいせき/勢多郡北橘村)出土の中期の土器でしょう。これら10点の重文指定の土器で注目されるのは、口縁部の優美な霞ヶ浦を中心とする地域の特色をもった<平地の土器>と、群馬や長野が分布圏で複雑な文様構成をもつ<山地の土器>とが、同一の遺跡から発掘されたということです。つまり、造形的に優れているだけでなく、2つの文化の接点を示す重要な資料でもあるのです。
もう一点の重文は、大間々町に隣接する桐生の千網谷戸遺跡(ちあみがいどいせき)出土の一点です。こちらは前のものより時代の下がった、縄文時代も終わりに近い<晩期>のものです。なお、この遺跡は瀬戸ヶ原遺跡と同じく岩澤正作さん(故人)によって初めて紹介され、後に晩期の代表的な遺跡として広く知られるようになった所です。
なかなか見られない優品ばかりです。もの言わぬ土器が語りかける縄文人のメッセージに、皆さんも耳を傾けてみませんか。 |
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Script:竹内/広報おおまNo.218(平成4年1月) |
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