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コラム

売込商「不入屋」の謎
−横浜で活躍した大間々商人−
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うちわに描かれた不入屋の浮世絵

「ありました!これが不入屋(いらずや)の店先ですよ」と、団扇(うちわ)に描かれていた一組の浮世絵を示して、思わず大きな声を出してしまいました。
この日、私たちは横浜市にある『横浜開港資料館』に、幕末の横浜に出店していた大間々の生糸商人について調査にきていました。ところが、どんな店を構えていたかを知ることのできるビジュアルな資料が見つからず、焦り始めていた時にこの絵が出てきたのです。

学芸員の西川さんから「この絵でしたら、実物は神奈川県立博物館が所蔵しているはずです」と聞き、すぐそちらで写真模写の許可をもらいました。こうして入手できた資料は、今では歴史展示室の「幕末から明治へ」のパネルで、いつでも見ることができます。

<3人の生糸売込商>
開国を迫る欧米諸国の圧力に屈した幕府が、200年余り続いた鎖国政策を改め、横浜など3港を開港し外国貿易を認めるに至ったのは安政6年のことです。

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横浜開校当時の南仲通の町並み図

日本からの輸出品の大部分を生糸が占めていたので、生糸や絹織物の一大生産地だった上州からも、大量の生糸が輸出されることになりました。このころは横浜の外国商館が仲介をしていたので、日本の商人は輸出する場合商館に売り込んでいました。
パネルでも解説していますが、大間々に関係した横浜の生糸売込商とは、「藤屋藤三郎」、「吉村屋幸兵衛」それに「不入屋伊兵衛」の3店でした。「藤屋」は桐原村の出身で、現在でも子孫の藤生素三さんが資料を大切に保管しています。また横浜経済界のビッグスリーとして君臨していたといわれる大間々町出身の「吉村屋」については、新里村新川の吉田本家に書簡など多量の古文書が残されています。ところが、大間々町出身とされる「不入屋」という変わった屋号の店に関しては、詳細を示す資料は発見されていないのです。

<不入屋の商標>
次に、開港資料館で得られた資料や『横浜市史』など数少ない情報から、不入屋の実像に少しでも近付いてみましょう。「不入屋」は初代の「伊兵衛」が安政6年(1859年)12月、南仲通り三丁目に開店、二代目は大間々(当時の大間々町)出身の「治兵衛」(治平と書いた本もある)が継ぎました。治兵衛のあとは慶応2年(1886年)ころ支配人の「中島金七」が継いでいます。
その後、明治2年の『生糸売込調』によると、不入屋は吉村屋に次いで第9位の売込商になっています。これを引用した横浜市史によると、このときの不入屋の名字は「上野」で、店主の名は「修助」となっています。横浜で出会った四代国政の筆になる浮世絵も、このころの店を描いたものです。
ここで絵の中にある暖簾(のれん)をじっくり見てください。商標が(上の字に山)となっており、これは「上野」の一字を取ったのかもしれません。このマークが創業の時からあったかは不明ですが、商標の性格上簡単に変えられなかったでしょう。こうして、不入屋は大間々の「上野治兵衛」であった可能性が浮かび上がってきました。ただし、初代の伊兵衛については出身地は明らかではありません。

<安中に来た番頭>
ところで先日、四区の小森谷順一郎さんが、「不入屋の番頭なら安中で西洋人とあっていますよ」と、1冊の本を見せてくれました。
その『青い目の旅人たち』(みやま文庫)によると、のちに官営富岡製糸場 を設立開業したことで知られるフランス人ポール・ブリューナーが、明治2年に下見のため安中の本陣に泊まった際、不入屋の番頭が泊まり合わせ、二人は知り合いらしく長話をしていたとのことです。ブリューナーは横浜の外人商館の商人でもあることから、売込商の不入屋がブリューナーに肩入れしていたことをうかがわせます。
このエピソードは、それまで霧の中にあった不入屋の営業活動の一端を明らかにしてくれました。なお、「藤屋」と「吉村屋」の資料については、また別の機会に紹介したいと思います。

Script:竹内/広報おおままNo.199(平成2年6月)




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