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番付に載った大間々の市 |
−関東市町定日案内(かんとういちまちさだめびあんない)− |
江戸時代の「大間々の市」の繁盛ぶりが一目で分かる資料として、歴史展示室のパネルに展示しているのが、関東の市の番付表です。
この番付によると、大間々の市は関東で桐生、前橋に次ぎ第三位の「小結」(江戸時代の番付に横綱はなかった)と評価されていたことが分かります。
<変わり番付の流行したころ>
大相撲で使われている相撲番付の形ができたのは、江戸時代の中ごろのことといわれます。それ以後、相撲の番付をまねて、ここに紹介した「市の番付」のようにいろいろなものに順序を付けた番付を発行することが流行りました。
これらの「変わり番付」は、全国の山や川の大きさや、金持ち・武芸者・悪妻良妻の比較番付など、あらゆる分野にわたって作られたので、当時の重要な情報源となっていました。
また、この大間々の市を「小結」とした番付の刷られた時期は、番付に桐生の市は毎月三と七のつく日に開かれていたと書かれていることからも、江戸時代の後半であったことが分かります。
<大間々の市の大繁盛>
大間々あたりの土地は、河川が狭い谷間を抜け平野へ出るところ(扇状地の扇頂部)なので、もともと山地と都市の物資の交易の場所となりやすかったようです。そのうえ、江戸時代になり大間々に正式の絹市が開かれると、銅山(あかがね)街道などの街道の主要な中継地ともなっていたので、近くの村だけでなく、遠くの町や村からもたくさんの物資が入ってきました。
こうして、次第に生糸や繭のほか絹織物などもほとんどが大間々に集まるようになり、江戸時代の中ごろまでは、大間々の四八(四と八のつく日に市を開く)の絹市は桐生をしのぐ大繁盛でした。
大間々の絹市の繁盛は享保16年(1731年)に、桐生織物業の発展を背景とした桐生絹市が、大間々の前日に当たる三七に開かれるとその地位をゆずります。しかし、従来からの農産物や日用品の「雑市」は、農家の商品生産の発展もあって、ますます栄えていましたし、「糸市」は桐生の織物業の盛況とともに、原料の生糸を供給する市としてその後も発展を続けました。
「大間々もたいしたもんだったんだねえ」こんな会話を江戸時代のパネルの前でよく耳にします。相撲番付の形を借りた市の順位を再確認させてくれる格好の資料といえるでしょう。
また、展示ケースには13区の橋本昭さんに提供して頂いた、大間々が「前頭」の時の番付も、実物が展示してありますので合わせてご覧ください。 |
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Script:竹内/広報おおままNo.181(平成63年12月) |
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