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深沢の角地蔵

深沢の角地蔵
深沢の角地蔵

 戦国の乱世には関東制覇をねらう越後上杉、甲州武田、小田原北条が互いにしのぎを削っていた。その勢力下にあった上野国東毛各地の武士団は、波間にただよう小舟のようなものであった。そういった武士のひとりであった太田金山城主由良成繁は、天正2年(1574)桐生親綱を滅ぼし所領を手中に治めたものの、黒川谷深沢城主阿久沢能登守や、沢入城松島式部小輔古柏らは由良氏に属さず、北条氏に通じていた。
  これを甚だ不満としていた由良国繁は、天正7年(1579)遂に軍を動かし合戦となった。この合戦で亡くなった戦死者をこの辺りに葬った塚が、千人塚(桐生塚)と呼ばれている。その後宝暦2年(1752)に正円寺28世盈仙和尚が、地蔵堂建立のため各村に行脚し浄財を集め、石工を招き仏像を彫らせていた。たまたま不思議なことばかり起こるので、頭部が完成されず石工が逃げ出したという。
  このことについて天明の頃、高山彦九郎が深沢宿を通った時の日記に、「石工に申付けたるに石工価にあたらて半途にして逃げたりといふ。」と書いてある。土地の人は寸法ちがいで出来ず「間違い地蔵」と呼んでいる。
 

概要

指定区分

みどり市指定史跡

指定年月日

昭和60年3月13日指定

所在地

みどり市大間々町上神梅328-3

 

2015年 7月 24日更新

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