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学芸論文

15周年企画展「試みの自画像-星野富弘の世界-」 

星野富弘の詩画の世界


詩画作品が誕生するまで

富弘美術館 学芸員 桑原 みさ子

 1946年、星野富弘は渡良瀬川上流域の山間の村で生まれた。星野が生まれる前の年、一家は戦災で焼け野原となった東京から父の故郷であるこの地へ戻っていた。その後、妹と弟が生まれ、9人の家族となった一家は主に農業で生計を立てていた。戦後という物資の乏しい時代でありながら、心豊かな家族の中で育ち、自然の中で育ったことが彼の感性を育んだ。小学校1年の時に見た器械体操の模範演技や、多感な少年期、兄的存在ともいえる恩師との出会いが、星野の人生に多大な影響を及ぼすこととなった。青年期へと進むにつれ、登山や器械体操への熱中、詩や絵とのふれあいへとつながってゆく。八木重吉や萩原朔太郎の詩にふれたのもこの頃であった。中学時代に出会った恩師の影響から絵を描くようにもなっていた。

 1970年6月、中学校の体育教師になって間もなくのこと。放課後のクラブ活動で空中回転の指導中、誤って頭部から落下。頸髄を損傷し、手足の自由を奪われる。事故という一瞬の出来事から、絶望の淵に突き落とされ、つらい闘病生活を強いられる。悲しみの深淵から彼を救い上げたのは、母の献身的な介護であり、憶えていたいくつかの詩人の言葉であり、信仰であった。そして、口に筆をくわえて、文字と絵をかくことであった。

 1972年12月、看護学生のアドバイスにより、はじめて「ア」という一文字がかけた。手足の自由を奪われ無力だと感じていた星野にとって、大きな喜びであった。器械体操を始めた時のように、最初の一歩は未熟であるが、やがてすばらしいものになるのではないか。開きはじめた希望でもあった。字が書けるようになると励ましの手紙に対する、念願だったお礼の手紙が出せるようになった。しかし、母の持つスケッチブックに書ける文は3行がやっと。余白にお見舞いにもらった花の絵をかき添えた。星野の詩画作品となる最初の形がここに生まれる。キリスト教との出会いによって、絵に聖書のことばを添えることも試みた。

 1975年頃から、新聞でみた詩画という表現形式を意識し始める。絵を描きながら思っていたことを言葉にして絵に添えてみた。これらは、1979年5月に、前橋にある群馬県心身障害者センターで初めて開催した展覧会においてひとつのかたちとなって現れる。絵と言葉は分離していたものの、お互いが関連性を持ちながら相乗効果を上げるという点においては、現在の「画文一体」の作品の特徴を備えている。また、今も代表作となっている作品のいくつかも、この時に生まれている。
 初めての展覧会での添えられた言葉と絵との関連は、やがて明確に意識され、詩画作品としての完成度が徐々に高められていく。やがて「画文一体」の表現が定着し、1981年から出版活動も始まり、詩画作家星野富弘が世にでることとなる。
 

詩画という芸術

絵と文からなる作品というものは、『絵画の教科書』(谷川渥監修「絵画と文学」小澤基弘)によれば、かなり古い時代から存在している。
 古代ローマの詩人、ホラティウスが『詩法』と題された著書のなかで「詩は絵のごとく」という詩と絵の類似性を示す言葉を残し、同時代の哲学者シモンデスも「絵は黙せる詩、詩は語る絵」という言葉を残している。
 この言葉は18世紀までに、さまざまな批評家によって引用されてきたという。つまり、
絵と詩の関係は、古来から姉妹同様に見なされてきた。

   自分自身で描いた絵に詩を添える、あるいは文章を添えること、またその逆に最初に詩や文章を書き、それに絵を付ける、そうした素朴な詩と絵の交流によって、自分が絵画だけでは気付かなかった部分が詩作によって明確になってきたり、あるいは絵画制作の次なる展開への思いがけない契機となるのではないでしょうか。事故で首から下の自由を失った星野富弘さんの生み出す画文一体の作品集は、こうした詩画集の可能性を明確に示す好例でしょう。
(「絵画と文学」小澤基弘)

文字と絵がひとつの画面に調和する表現形式は、芸術としての位置を確立している分野である。
 

作品の変遷
 
1.初期作品とペン画

 1975年3月一枚の絵が仕上がる。それ以前は、励ましにもらった手紙の返事に添えられた絵であった。この時、初めて仕上げたのは「シンビジューム」である。背景をサインペンで丹念にぬり重ね、咲きほこるシンビジュームを細部までをよく観察し、緻密に表現している。技巧的には未熟であるが、花びらの柔らかさ、花の気品が感じ取れる作品である。
 油性のサインペンでふちどりをし、水性のカラーサインペンで色をつける。子供のおもちゃ程度にしか考えていなかったカラーサインペンだが、何色もまぜ合わせ、その上を水だけつけた筆でなでる。すると、思いがけなく美しい色になったというまた、花びらのやわらかな色は、サインペンで直接ぬるのではなく、一度別の紙にぬったものを筆にとって、色付けする方がよいことに気がついたりもした。サインペンの先をつぶして太くして描いてもみた。一つの失敗には必ず一つの発見が与えられたと、星野は『愛、深き淵より。』に記している。
 初期作品の多くを、星野はサインペンで描いている。その理由はふたつ。ひとつは、口に筆をくわえてかく場合にかきやすかったということにある。もうひとつは、中学時代に出会った美術教師からの影響である。「中学生の時、美術の先生が万年筆でスケッチし、つばきをつけてぼかしていたのをまねたのである」と記している。健常時の大学時代も、生家近くの風景や山をこのようなかき方で描いている。
 これらの過去の体験から、慣れ親しんでいたサインペンによる作品づくりがはじまった。
 このことは後に、水彩絵の具とサインペンが併用され、朝日新聞にペン画の連載を行うことへと繋がる。シンビジュームの絵には次のような詩を添えている。蘭をくれた人への感謝と、蘭の美しさを表した詩文である。


  私の未熟な筆では

この花の千分の一の美しさも描き出すことはできない。

しかし私はこの花をいつまでも心に留めておきたい

苦労して育てた花を

根元からスッパリ切って私にくれた

Nさんの気持ちとともに

いつまでも心に咲かせておきたい

 また、同時期の絵には「折れた菜の花」「チューリップ」があり、『愛、深き淵より。』の中には次のような制作所感ともいえる言葉が記されている。

   私はそれまで花をじっくり見たことはなかったが、病室の中ではお見舞いの人にもらった花が、ただ一つだけ身近に接することのできる自然だった。床頭台や窓辺におかれた小さな花を毎日みつめながら寝ていると、その色、その形の美しさに、驚かされることばかりだった。花には一つとして余分なものがなく、足らないものもないような気がした。ちょうどよいところに花がつき、ほどよいところに葉があり、葉と花に、似合った太さの茎があった。葉は花の色を助け、花は葉の色と形をそこなわずに咲いていて、一枝の花とはいえ、広大な自然の風景をみる思いがした。……中略……私は絵に関してはなにもわからないが、この自然のままに咲いている花をそのまま写していれば、よい絵が描けるようになるのではないかと思った。

 無機質な病室で目にすることのできるたったひとつの自然が、お見舞いにもらった一枝の花であり、この時の美の発見がその後の創作へのエネルギーとなったといえる。わずかな文字に絵を添えた手紙がかけるようになり、詩画作品の生まれるきっかけをこの時につかんだ。創作の第一歩の作品が生まれ、制作所感を持ち得たこと。1975年の3月は、星野にとって意味深い時である。

シンビジューム 折れた菜の花 チューリップ
シンビジューム
1975年
折れた菜の花
1975年
チューリップ
1975年

 その後も、病室での制作は続けられ、1979年、初めての展覧会が開催されるまでに、描かれた作品は60点。それまでは母と二人で自らのために仕上げた作品である。身障者センターの久保田所長から、展覧会をやってみないかとすすめられた星野は、とても人に見せられる絵ではないとしりごむ。しかし、母と二人三脚で描いた絵を通して、福祉で一番大切な心のつながりを紹介したいという久保田所長の熱意に打たれ、星野は承諾する。どうせ見せるなら、ただ単に口で描いた絵を見てもらうという展覧会ではなく、ひとりの人間の「生きざま」の紹介をしてみてはどうかとも言われ、初めて書いた文字、未完成の下手な絵も展示することに決める。絵を描きながら思っていたことを二・三行の言葉にして絵に添えた。「書きはじめて私は、また自分の弱さやみにくさをさらに知らされるような気がした。本当の気持ちは書くことができず、自分を繕ってしまうのである。どんな冒険に立ち向かうよりも自分をさらけ出すことのほうが、ずっと勇気が必要なのではないかと思った」(『愛、深き淵より。』)この展覧会は多くの人々に感動を与え、反響を呼んだ。作品は母と二人だけの世界のものでなくなる。

   病院のベッドの上で、私と母だけでこそこそと描いた絵はもうすでに私と母だけのものではなくなっていた。
 私の手からも、狭い病室からもぬけ出し、自立し、様々な人の心に忍び込み、自由に旅立っていった。ふるえるくちびるで、苦しみながら描いたものほど、遠くへ旅立っていったようだった。(『愛、深き淵より。』)
 

2.1980年~1993年の作品

 1979年9月に退院、長い闘病生活に終止符を打つ。身障者センターで開催された展覧会は思いもよらぬ反響を呼び、星野に創作活動への道を開かせた。故郷へ戻り、本格的に創作活動と出版活動を開始する。幼少期、山懐に抱かれ、自然の中で暮したことが彼の感性を育んでいた。闘病の後、再び、この故郷へ戻り、自然と生活の中に輝く「生命」を詩と絵で表現することとなる。事故によって絶望の淵に落とされ、9年間もの闘病生活を味わった人間であるからこそ、日々の生活の中に輝く「生命」を捕らえた作品の数々を生み出し得た。
 退院後、一枚の水彩紙に詩文と絵が同居する詩画作品が定着する。
 1981年結婚。創作のパートナーが母から妻、昌子さんへと代わる。エッセイでは長文が書けるようになる。詩画の制作では、色使いが心持ち明るさを増し、緻密な表現へと変化する。昌子さんをパートナーとして、より充実した創作活動に入れたことは、当然のように作品に変化をもたらすことにもなった。
 以後、10年間あまり、静かな生活の中での充実した創作活動が続く。この間、『愛、深き淵より。』、続けて詩画集『風の旅』を出版。これらの出版本は多くの人々に感動を与えた。そして感動した人々の発案をもとに詩画展が開催される。京都の詩画展(1982年)ではわずか一週間に4万7千人が入場した。県内のみならず、県外での詩画展、特に京都の詩画展の反響は星野にとって、作家としての自信に繋がった。1992年までに出版した本は手記2冊、詩画集3冊、対談集1冊、合計6冊にも及ぶ。表現したいものが豊富にあり、創作意欲に駆られていた時期である。
 

 この時期に制作された作品についてふれてみたい。
 1986年に制作された「ぼたん」ついて。
 この作品は「私は絵に関してなにもわからなかったが、この自然のままに咲いている花を、そのままに写していれば、よい絵が描けるようになるのではないかと思った。」(『愛、深き淵より。』)と記述しているように技法的なことにはこだわらず、描きたい対象と関連する詩文を一枚の画面に納めようとしている。例えば、画面下部に絵があるものは上部に詩文画面上部に絵のあるものは下部に詩文を配し、絵と詩が画面内で上部と下部に分かれている。作品「畔道の草」(1984年)、「日日草」(1985年)にも同様なことがいえる。「ぼたん」においては着色は混色を繰り返ししているため、透明水彩で描きながらも、彩度の低い色調になっている。
 この頃の作品は、細部までをじっくり見つめて描いている。それが魅力となってあらわれている。後の作品と比べると技巧的には未熟さが感じとれるものの、9年間の闘病生活を通して見えてきたものや気づいた数々のことを、草花を見つめることを通して、ほとばしるように表現している。

畔道の草 日日草 ぼたん
畦道の草
1984年
日日草
1985年
ぼたん
1986年
 

3.1994年以降の作品

 1994年、熊本の県立美術館で詩画展が開催される。この時期に作品にも変化が見られる。いくつかの作品から見受けられる特徴をそれ以前のものと比較しながら記してみたい。
 1994年以降に制作された作品として、「昼顔」(1997年)、他数点を例にあげる。
 作品「昼顔」は、画面中央に昼顔の花の絵を配し、画面上部に詩文をつる草の茎のうねりに合わせて配列し、文字と絵が一体化した表現になっている。また、「草の実」(1998年)は飛び散るように描かれた花や草の実と朱色で塗られた背色とのバランスを意識して、詩文を配置している。「わらう」(2002年)は一本の菊の流れにそって、上下に、詩文を配置する。「水芭蕉」(2002年)は、太い灰色の線で水芭蕉の花のふちを力強く描いている。前後に並んだふたつの花は「一列になって時計を背負って歩いて行く 身を寄せて水芭蕉が見ている」と書かれた詩文と呼応する形で表現されている。「花よりも小さく」(1998年)は繊細で静謐な美しさを備え、1980年代の細部までをじっくり見つめた表現の作品として存在する。
 また、この頃の作品の色調は1993年以前の作品に比べ、透明感と鮮やかさを増している。
この時期、作品によって筆遣いを変え、詩文と絵の配置を工夫するなど、さまざまな模索が繰り返されている。

昼顔 草の実 水芭蕉
昼顔
1997年
草の実
1998年
水芭蕉
2002年

 星野独特の字体、文字そのものの魅力についても記しておきたい。
 全体から部分という順でたどってみると理解しやすい。まず、「詩文と絵の配置」がある。それに連動して、詩文を構成する「文字の配列」がある。その前に「文字そのもののかたち(字体)」がある。ひとつひとつの文字のかたちはそれだけで魅力的である。しかし、この段階では、文字は「ことば」の一歩手前にある。文字そのもののかたちとその配列、詩文と絵の配置、それらが一体となって詩画作品として表現され、はじめて「文字はことばとしての生気を帯びる」と言えるだろう。

 初期作品から近年の制作に至るまでの作品に変遷をたどってみると、明らかに「技法にこだわらない、ほとばしる表現」から「文字と絵の一体化、詩文と絵との配置、背景色とのバランスへの配慮」へという作風の変化がみられる。特に1994年以後はそうした模索が繰り返されている。
 

おわりに

『あなたの手のひら』(1999年4月出版)の中で星野は以下のように記している。

   絵と文字という別のものを一枚の絵の中に描いていくうちに少しずつ分かってきたのですが、絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。欠けているもの同士が一枚の画用紙の中におさまった時、調和のとれた作品になるのです。これは詩画だけでなく、私達の家庭も社会も同じような気がします。欠けている事を知っている者なら、助けあうのは自然な事です。
 

また、星野は以下のように語っている。

   「昔と同じものは書けません。 以前のように歯を食いしばって生きるということはなくなりました。現状を喜ぶ側面が色濃くなります。そろそろ書く題材が乏しくなってきた、何とか絞り出さねばと考え始めたのがちょうど90年代の後半からですね。これからは創作の努力をしなければならない。詩画の作家にならなければダメだと意識しています。その途上にあるのだと思います。」
(日本経済新聞2006年2月10日「ひとスクランブル」)
 

 詩画作家としての自覚ゆえの、新たな模索が始まる。
2006年4月、星野は60歳の誕生日を迎えた。負傷してから36年、本格的な創作活動を開始して30年が過ぎた。自己表現の手段として最も適した詩画という表現形式を見い出し、現在もなお創作活動を続けている。4月23日に「童謡ふるさと館」で、行われた対談で「これからが本番である」と語る95歳になる日野原重明氏に共感し、意欲の程を見せている。

※ 参考文献

『絵画の教科書』谷川渥監修 「絵画と文学」 小澤基弘著 日本文教出版
『愛、深き淵より。』星野富弘著
『かぎりなくやさしい花々』星野富弘著
 

2015年 8月 14日更新

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