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岩宿時代に関するQ&A

もくじ

 

遺跡(いせき)について

Q.岩宿時代(旧石器時代)の遺跡は、群馬県に何ヶ所ありますか?

A. 
 群馬県内における岩宿時代の遺跡は、325ヵ所で確認されています(2008年現在)。1メートル以上も深い場所で遺跡が見つかる場合が多いため、発掘調査などによって今後とも増えていくことでしょう。
 なお、全国には10,000ヶ所以上の遺跡があることが明らかになっています(2010年現在)。遺跡が発見されている密度は、世界で一番高いといえるでしょう。

全国の岩宿時代遺跡の広がりの図 
全国各地の岩宿時代遺跡の分布
 

Q.岩宿遺跡から発見された石器の数は?みどり市内の遺跡で発見された石器の数は?

A.
 1949・1950年の発掘調査では、209点の石器が発見されています(重要文化財)。また、相沢忠洋さんも岩宿遺跡で31点の石器を見つけました。209点の石器については常設展示のページをご覧ください。
 みどり市には岩宿時代の遺跡が15ヶ所あり、石器が810点が発見されています。岩宿遺跡や隣にある岩宿II遺跡のほか、和田遺跡や清水遺跡など、鹿田山の丘陵に多くの遺跡があります。

 

Q.岩宿遺跡では発見された石器はどれくらい古いものですか?

A.
 岩宿遺跡のA地点やドームのあるB地点では、約35,000年前と約25,000年前のものとされる石器が発見されています。ナイフ形石器という狩りの道具が中心です。また、相沢さんが発見した石槍は今から約17,000年前のものだと考えられていますが、岩宿遺跡の隣の岩宿II遺跡でも同じ時期の石器が発見されています。
 その他にも、稲荷山の南斜面からは約10,000~5,000年前の縄文時代の石器や土器も発見されています。
  

 

自然(しぜん)について

Q.岩宿時代(旧石器時代)と縄文時代の地層にはどんな違いがありますか?

A.
 縄文時代の地層は黒からこげ茶色、岩宿時代の地層は黄色からオレンジ色をしています。特に岩宿時代の地層は「関東ローム層」といわれます。
 岩宿時代では火山が盛んに噴火し、火山灰が積もることで黄色いローム層ができました。また、縄文時代になると氷河時代も終わり、気候があたたかくなって植物がたくさん芽生えたため、黒い地層になったと考えられています。

 

Q.黒耀石はどのようにできて、どうして黒いのでしょうか?

A.
 黒耀石は火山のマグマが急に冷えて固まった岩石です。流紋岩(りゅうもんがん)という岩石ができるようなマグマであること、急に冷やされること、という限られた条件がそろって黒耀石ができます。そのため、採掘できる場所も限られているのです。また、黒耀石は黒いものが多いのですが、わずかな成分の違いから、赤色、灰色、緑色などのものもあります。

 「黒耀石」は、一般的には黒曜石と書かれることが多いのですが、岩宿博物館では、岩宿時代(旧石器時代)の人々がその輝きにさぞ心踊ったであろうと考えていることから、「耀」の字を使用しています。

 

Q.氷河期はどうして寒いのでしょうか?

A.
地球は、1日に1回まわり(自転)、また1年に1回太陽の周りを回って(公転)います。その回転運動が何万年ごとに少しずれたりすると、太陽から届く熱量が微妙に変化します。氷河期はそうした太陽からの熱が少ない時期にあたるという訳です。
 1920年代から1930年代にかけて、ユーゴスラビア(現在のセルビア)の数学者・天文学者であったミランコビッチという人物がこの変化の動きを計算しました。

 

Q.マンモスの重さはどれくらいですか?博物館にある骨の重さも教えてください。

A.
 実際のマンモスの重さは約3~5トンだったといわれています。また、博物館に展示されている大腿骨(だいたいこつ)の重さは約5キロですが、化石となった骨は埋まっていた条件によって重さが変化するため、もとの重さとは異なります。

 

Q.マンモスはどうして絶滅したのでしょうか?

A
 最後までマンモスが生きていたとされているのは、現在のところロシアの北極海にあるランゲル島で、約7,000~3,700年前までだったといわれています。
 また、絶滅した理由として以下の理由が考えられています。
  (1)エサになる植物が気候の変化により減ってしまった
  (2)人間がマンモスゾウを取りすぎた
  (3)1と2の理由が重なり、ある程度の生息数を保てなくなった

 

Q.ナウマンゾウはどうして日本にきたのでしょうか?

A.
 
氷河時代は寒く、氷河や山の雪などとして多くの水が地球の陸上にあったため、 海水面が現在より低い状態でした。その当時の日本列島は大陸とつながっていたこともあり、ナウマンゾウの住める環境であった日本へやってきたようです。

 ナウマンゾウについてもっと詳しく知りたい人は、野尻湖ナウマンゾウ博物館のホームページで調べてみましょう。

 

人類(じんるい)について

Q.博物館にあるクロマニョン人の歯はどうして1本少ないのでしょうか?

A.
 クロマニョン洞窟で発見された人骨は老人の骨であったといわれています。もしかすると年をとって抜け落ちたのかもしれません。

 

技術(ぎじゅつ)について

Q.石器や土器をはじめて作った人は、どうして思いついたのでしょうか?

A.
 とても難しい問題です。石器については、近くにある石を使ってアブラヤシの実を割るチンパンジーの一種が知られており、人類が生まれる前から「石器」を使っていたとも考えられます。
 土器は、焚き火のまわりの粘土が火に焼かれて硬くなる現象を知って作られるようになったのではないかといわれていますが、やはりよくわかっていません。現在のところ、東アジア地域の土器が約16,000年前と、世界的に最も古いといわれています。

 

Q.石槍にした石器の大きさはどれくらいですか?

A.
 目的となる石槍の大きさによって異なります。皆さんが体験で作る石槍の材料は、約100gほどの黒耀石の薄いかけら(剥片)ですが、その材料から約20gの石槍ができているのではないでしょうか。
 ちなみに石器作りの達人は、材料から約15%くらいの重さの石槍を仕上げることが多いようです。出来上がった石槍の大きさ(重さ)から逆算すると、おおよその材料の大きさがわかります。

 

Q.石器は何種類ありますか?

A.
 人類最初石器の種類は数種類と少なく、さまざまな用途に使う万能の道具として、礫器(れっき)を使っていたようです。
 岩宿時代では、狩りのための道具のナイフ形石器、石槍、細石刃、木や角を削るための削器(さっき)や彫器(そうき)、皮なめしの道具の掻器(そうき)、石器を作るときの敲石(たたきいし)などがあり、その種類も使い道によって増えていきました。

 

Q.はじめに火はどのように起こしたのでしょうか?

A.
 人類は1,000,000年前頃から火を使っていたようですが、火を起こすようになったのは、10~50,000年前頃からといわれています。木と木をこすり合わせて、その摩擦熱(まさつねつ)で火をおこしたと考えられています。
 なお、日本で火起こしの道具が発見されたのは縄文時代になってからです。

 

生活(せいかつ)について

Q.岩宿の人々はどのように冬を過ごしていましたか?

A.
 
今から約20,000年前は現在より7度くらい寒い氷河時代でした。その頃にも岩宿遺跡に人々が住んでいたのですが、テントのような簡単なイエを建て、毛皮などでできた服を着ることで寒さをしのいでいたと考えられます。

 

Q.食べものがなくなったとき、人々はどうしていたのでしょうか?

A.
 
食物の少なくなる冬に備えて、木の実などを蓄えていた可能性があります。また、岩宿時代の人々は狩りをしたり木の実などを拾い集めたりして生活していましたが、住んでいる近くに食べものが少なくなったときには、新しい場所をさがして移動したと考えられています。

 

Q.お風呂やトイレはどこにあって、どうしていたのでしょうか?

A.
 岩宿時代やその後の縄文時代では、お風呂やトイレとされる、はっきりした跡は発見されていません。近くの川で水浴びをして体を洗い、トイレも自然の中で済ませていたのかもしれません。

 

Q.何年前から人は言葉を話すようになったのでしょうか?また、どのように会話をしていたのですか?

A.
 人がいつ頃から言葉を使うようになったのかはよくわかっていません。ただ、石器作りの習得では、言葉がなくても身振り手振りで教えることが可能であると実験でわかっています。また、何人かでチームを組んで狩りをする場合など、言葉などの合図をしながら動物を追いつめていたことでしょう。

 

Q.ケガやキズはどのように治しましたか?

A.
 岩宿時代に医者はいませんでしたが、薬草などの知識を多くもっていたことでしょう。また、お払いなどの“まじない”によって、病気が治ると考えられていたようです。
 


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2023年 10月 5日更新

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