銅の道あかがね街道
江戸時代のはじめ、足尾銅山は幕府の直営(ちょくえい)とされていました。足尾で精練(せいれん)した御用銅(ごようどう)を江戸へ運ぶための道として、銅山街道(あかがねかいどう)が設けられました。この街道は、まさしく銅の道でした。足尾を出た御用銅は、沢入(そうり)・花輪・大間々(のちに桐原)・大原・平塚の、5つの宿を順番に送られたのち、利根川を下って江戸浅草の御蔵入りとなりました。
この銅山街道が整備されたころ、はじめは大間々宿に銅問屋(どうどんや)が設けられていました。しかしその後、大間々が天領でなくなったために、江戸時代の中ごろになって桐原宿に移されました。桐原の藤生家では、今でも銅蔵(どうぐら/銅をいち時保管する蔵)と、その役めに関係のある文書などが残されています。
このように、大間々、桐原は御用銅を運ぶための、たいせつな場所でした。そのことからも、人がにぎわう宿場町としても栄えました。また、銅山街道は、大間々の奥にある村や集落へ、ふだんの生活に使う品物などを送るため、また、山地の産物を集めるなど、物資の集散地としての大間々町を発展させるのに役立ってきました。