学芸論文「花の詩画の源流 星野富弘、その人と精神」
15周年企画展「試みの自画像:星野富弘の世界」
花の詩画の源流:星野富弘、その人と精神
聖生 清重
東村の風土
星野と同じ年に、この世に生を受けて60年。還暦の年に越し方を振り返った時、あるいは、小学校入学から今日まで、そしてこれからもそうであり続けるだろう親友である星野との歩みを振り返った時、二人の間に流れ続けていたものは、一体何なのだろう。自分自身は、明らかにそうだが、不自由な生活を余儀なくされた星野という一人の人間に一貫して流れ続けた、生きる上での原動力や人格を形成している感性はいかにして培われ、それが人生にいかなる影響を及ぼしたのだろう。
この図録の出版に際して、詩画作家、星野という人間に関しての一文を依頼されて以降、ことあるごとにそう考えた。自分にとっても、星野にとってもいささかやっかいな問いへの回答は、要約すると、戦後間もない昭和20年代後半から30年代における旧東村での生活と学校生活によって培われた「人間は、自然の中で自然と共生し、家族や地域の人々と協力しあって生きている」という価値観にいきついた。その後は、そうした価値観を土台に、時代を超越する思想や時代、時代の新たな価値観を加え、多くの先人、知人、友人からも影響を受けて人生観を身につけてきた。
なぜ、そうした価値観にたどり着いたか。星野と散歩を楽しむようになって以来、約30年という時が経つが、散歩中の会話の多くが、要約すれば「東村での生活」にあったことに気づいたからだ。散歩中の話題は、お互いの近況はもちろん、その時々の社会的事件だったり、政治の変化であったり、スポーツであったり、ベストセラー本であったり、友人・知人の話題であったりする。友人同士の会話なのだから、とりたてて気取ることもなければ、変に構えることもない。言わば、その時々に思い付いた関心事を話しの種にしている。そんな時、期せずして意見が一致することが少なくないが、その判断基準の根っこが「東村での生活」にあることにお互いに気づくのだ。
例えば、廃校になってしまった母校である「杲(ひので)小学校」の杲の字。廃校は少子化でやむを得ないとはいえ、せめて「杲」の字は、何かに残せなかったのか。地名などの変更にはおそらく法律の壁が高くそびえているのだろうが、「杲」の字が消えてしまうのはいかにも惜しい。そんな会話を何度もしたが、それは星野も私も「杲」の字に、今生きている白分を「杲」が形成してくれたという意味での愛着があるからだけではなく、「『日(太陽)』は『木』の上から昇る」という、その文字に地域の生活文化の象徴としての価値を認めているからだ。もう一例をあげると、東村にも押し寄せた市町村合併で東村は「みどり市」になった。この「みどり」の名称についても、話し合いと妥協の結果だろうが、地域の個性を表現しているとは言いがたく、いささか安易すぎるのではないか、との意見で一致した。その判断の基準は「東村」が白分達の個性に強い影響を与えている、言い換えれば、和辻哲郎の「風土」のように、旧東村という風土が精神構造に組み込まれている、との自覚があるからに他ならない。
「労働」の喜び
星野の体内には、旧東村という山村の地と、そこでの生活体験が地下水脈のように流れ続けている。星野が生まれ育ち、自我を形成した時代は、戦後のまだ、貧しかった時代。当時、村人の生活は、わずかな田畑を大事に耕しながら、林業や石材業、養蚕で生計を維持するものだった。作物を作り、余りは牛や豚にやる。牛や豚の糞尿は肥料となり、それで作物が育つ。山の木は燃料になり、落ち葉は堆肥に利用した。
在野の哲学者、内山節氏は、昭和45年ころから山村の生活を体験、観察、分析、思索する中で、村人が「労働」と「稼ぎ」を明確に分けていたことを指摘している(『自然と人間の哲学』)。それによると、村人にとって自然と共生した農林業やコミュニティーのインフラ整備である共同の道普請などは「労働」であり、土木作業など賃金がもらえる仕事は「稼ぎ」だった。共同体という地域のコミュニティーが生きていた時代、祭りなどは集落総出で準備したし、田植えはお互いに手伝い合った。村人は本来的には、労働そのものが生きることで、そこに喜びを見出していて、できることなら「稼ぎ」はしたくなかった。
星野も私も友人たちも、農業を手伝い、山で木を集め、草を刈った。川で魚を釣ったり、山で茸を採った。正月を迎えるための餅つきなどの年中行事は、それは楽しみだった。星野に限らず村の少年少女にとって、花や木は生きる糧であり、かけがえのない友でもあった。父母をはじめとした家族のあたたかい愛情があり、隣人や友人との濃密な交流があった。
星野の作品には、土にまみれる父や母が登場するが、昭和20、30年代の東村の生活は、なべてそのようなものだった。星野自身、上毛新聞平成18年元旦号の座談会で「百姓」は「百匠」なり、と喝破している、そんな生活は、高度成長以前の日本ではあたりまえのものとして存在していた。星野という人間とその精神の発露である作品のベースは、東村という自然とそこでの生活体験にある。そして、その生活体験は、同時代に生きた多くの日本人に共有されている。
体操と登山
星野が大けがに遭うまでの人生で好きだったことは、よく知られているように、器械体操と登山。吊り輪、鉄棒、床運動、オリンピックや世界大会をテレビでしかみたことがない人には、それがどのくらいすごいことなのか、なかなか理解しがたい。鉄棒の大車輪ができる人の割合を想像してみれば分かる。実際、中学、高校時代の友人の何人が大車輪を成功させることができただろう。大車輪ができた者は、クラスはもちろん、学年でも何人かしかいなかった。少年のころから運動神経が人一倍優れていた星野が、"神技"を連発したり、片手倒立で前進、後退するシーンは、私の記憶の中にいまでも鮮明に残っている。
颯爽と難しい技を演じる星野のその時の気持ち、気分は想像するしかない。星野の器械体操は、私にとっては、神技そのもので、とても真似ることはできないし、その喜びや意味を理解することもできない。器械体操が星野の人格形成にいかなる影響を与えたのかも、想像の域を出ない。平凡な表現だが、完璧に演技を終えた時の達成感、基本を繰り返し、新しい技に挑む過程での努力が報われた時の満足感は、何にも勝るものだったろう。
しかし、星野のもう一つの趣味である登山の喜びや登山から得たものなら、星野の山仲間として、その体験をかなり共有、共感できる。星野が自書で書いているから、多くは触れないが、山への興味を植え付けてくださった中学時代の恩師のT先生と村で最も高い袈裟丸山へ登ったこと、高校受験を目前にした冬に、二人で雪の袈裟丸山に挑んだこと、T先生に連れられて登った初めての谷川岳、高校の山岳部の仲間と登った冬の谷川岳。数々の登山での星野の真骨頂は、渡良瀬川源流の岩山の垂直の岸壁を、得意の器械体操の技術を生かして、やすやすと登ったところにある。そうした登山は、星野に何をもたらしたか。私に関して言えば、社会人になって以来、遭遇した多くの困難を乗り切る際、「山での苦労に比べれば、今の苦労なんて小さい、小さい」と考え、困難を克服する、そういう精神の強さを学んだ。星野もこのことは、おそらく否定しないだろう。
星野は、しかし、好きだった体操によって身体の自由を奪われた。死の淵からの生還、その後の花の詩画作家としての人生。その過程で、器械体操と登山は、いかなる役割を果たしたのか。とりわけ、登山はどうか。登山の真髄は「挑戦」、「冒険」、「忍耐」、「感動」、「畏敬」などの精神を涵養してくれるところにある。山での体験は、宇宙と一体になっている、そんな感覚に浸かる一方で、一個の人間はなんとちっぽけな存在なのか、ということも教えてくれる。垂直の岸壁に攀じ登っている時、山の頂点に立った時、吹雪でテントや雪洞に閉じ込められた時など、大自然のただ中にいる自分は「確かに、生きているがその存在はなんてちっぽけなんだろう」と実感する。星野は、身体の自由を失うという絶望から脱出した。それだけでなく、口にくわえた筆で人々を感動させる作品を生み出し続けている。その絶望から新たな希望への過程で、器械体操と登山、なかでも登山で体験した、「大宇宙と一体になりながら、ちっぽけな自己を認識し、困難を克服するこころ」が、大きな役割を果たしたと私は考える。
おだやかな微笑と鑑賞する人を選ばない作品
「男の顔は、履歴者」という。年齢を経れば、誰でもそれまでに生きた時間の集積が顔に凝縮されて現れる。星野の顔、なかでもその笑顔が、見事なまでに純なことに気が付いたのは、何時ごろのことだろう。最近ではないが、若いころでもない。星野は本来、ひょうきんなタイプだし、ダジャレで人を笑わせるのが得意だが、そんな時の星野の笑顔は、まことに味がある。白髪が、笑顔をより映えさせているかも知れない。入院中の絶望と希望の繰り返し、花の詩画を描くことによる、新たな人生への旅立ちと自信、生きること(花の詩画を描くこと)そのものが「労働」になった星野。内山が言う「労働」は、喜びであり、生きるための糧ももたらす。味のある微笑は、そうした「労働」の果てに獲得したものだろう。
星野の作品は、それを鑑賞した「すべての人」の心に語りかける力がある。落ち込んでいる時は励まされ、こころがささくれだっている時は癒され、頭(ず)にのっている時はやんわりと頭を冷やされ、家族の絆がばらばらな時は、絆回復へのきっかけを与えてくれる。「喜怒哀楽」がつきまとい、止むことのない人間。その人間の移ろいやすいこころのありようがどうだろうと、星野の作品は、そのすべてを受け入れ、鑑賞した人のこころをきれいにし、あたたかい思いを満たし、明日への希望の灯を灯してくれる。
それにしても、星野は、何故、澄み渡った青空のように一点の曇りもない"純"な「やさしさ」を作品に表現することができるのだろう。昭和45年6月17日午後5時ころの事故により、脊髄損傷で全身の自由を失ったこと。文字通りの死の淵から生還し、自分を励ましてくれた手紙への礼状を書きたい一心から、口で筆をくわえるようになった。その後、草花の絵を描き、詩を添えるようになった。著書の『愛、深き淵より。』に詳細に記されているように、大けがとの生命を賭けた闘い、絶望と希望の繰り返し、母や家族の献身的な支え、医療従事者の努力、友人、知人の励まし。それらが一体となって、著名な花の詩画作家、星野を形成し、感動を与える作品を生み出しているのだが、でも、何故なのか。
母をはじめとするすべての人に感謝しながらも(例えば、作品・ペンペン草)、やり場のない怒りや嫉妬心(例えば、『愛、深き淵より。』の見開きなど)の処理に困ったこともあった。自身の弱さを思い知らされ、醜いこころを持っている事実にも直面し悩んだ。生への希求、他者への感謝、神への祈り、強いこころと弱いこころの葛藤の末に生まれた花の詩画の数々。多くの作品の中でも、母への感謝と自己の弱さ、醜いこころを率直に表現した作品が胸を打つ。そうなのだ。「自己に克った」星野だからこそ、「やさしさ」が、自然体で素直に描けるのではないか。
星野は、24歳までの人生(村での生活と運動神経抜群で教職を目指し、手に入れた)と身体の自由を失って以降の二つの人生を生きてきた。だが、身近に接してきた私がみる星野は、24歳の前と後もその本質は変わらない。
星野は、会話中に時折、遠くに視線を向ける。おだやかな表情で、遥か彼方を見ていると思える瞬間がある。越し方を振り返り、明日に思いを馳せているのだろうか。そんな時、私はかってに「身体は不自由だが、こころは自由で星野は星野のままなのだ」と思う。実際、「かあちゃん」と母を呼ぶ星野は少年時代の星野だし、友人の近況を話す星野は学生時代の星野だ。著名な詩画作家の星野もそうした星野に他ならない。
変容の先へ
つい先日のこと。星野との間でこんなやりとりがあった。星野の家を訪ねるにあたって、都合を聞いたのだが、その際、仕事は別にして、普段の私生活ではほとんど使わないメールを使った。「○○日か××日に伺いたいのだけれど、都合はどう?」、「○○日の△時がいいな」と。そんなやりとりだが、そのメールに星野は、こう書いてきた。「メールでやりとりするなんて、不思議だよな」。そう、まさしくそうなのだ。電話もなかった少年時代とメールでやりとりする現代。距離の壁を取り除いたメールという高度に発達した通信手段。星野のメールの一片は、世紀末(それもたかだか30-40年の間)に起こった科学技術の急速な進歩とそれに伴う社会の変容のすさまじさを、改めて想起させた。互いにそれ以上の言葉は付け加えなかったが、60歳になった日本人が通過した旧東村と日本社会、そして世界をおそった変容の大きさを、互いにかみしめた。
少年時代には、夢だった自動車。いまでは、一家に一台ではなく、一人一台まで普及している。星野の母も、私の母もかつては、まきでご飯を炊き、手で大量の洗濯をしていた。われわれの時代は、それが当たり前だった。そうした重労働は、かなり前から電気エネルギーが代替してくれるようになったが、同時に、戦時中の「空襲の恐怖」の記億を聞く機会もほとんど失われた。一方では、星野も私も、互いの家族も、日本人はすべからく戦後の経済成長と科学技術の発展の恩恵をフルに受けている。星野が散歩に使う電動車椅子は、まさしく科学技術文明の成果だ。
人間は、科学技術の進展によって距離の壁を取り除き、時間さえも自由に操るようになった。しかし、その分、生身の人間としてのヒフ感覚でのふれあいが希薄になった。フェイス・ツー・フェイスのコミュニケーションが不得手な青少年の犯罪は、そうした科学技術文明の成果の負の側面だろう。科学技術では得ることの出来ない、人と人との根源的なつながり。社会を構成する最小単位である家庭の崩壊にしても、科学による進歩を信奉する文明の進展と反比例して増加しているように思える。
日本だけではない。かつて、世界から「アジア的停滞」とか「東洋の停滞」とされた、アジア諸国も相次いで経済成長路線に乗ってきた。世界を見れば、東西の壁(東西冷戦)は、もうない。豊かな北の国と貧しい南の国の南北間題は大きな課題だが、社会主義の看板を下ろさない、あの中国も「市場主義」に奔走し、最近の報道によると、ついに外貨準備高で世界一になった。確かに、経済の発展は好ましいことだが、その結果、貧富の差の拡大、拝金主義、環境汚染などにみられるように社会が殺伐としてくるのは、世界的な傾向であろう。
星野のメールの一片は、敗戦の翌年に生まれた世代が、生きてきた60年という時の流れの中で起こった世界と日本の社会の変容を象徴している。同時に、その変容は、私たちに何をもたらし、これからの人生にいかなる影響を及ぼすのだろうか、と考えざるを得ない。60歳は、一般的には、定年の年。団塊の世代が2007年から、一斉に定年を迎える「07年間題」がとりざたされているが、ことは団塊の世代だけでなく、星野にとっても、私にとっても共通の命題なのだ。「07年間題」は、日本社会にも大きな影響を及ぼすと言われているが、そのささやかな一端を担う一人の人間として考えることは、日本はもとより、地球規模の人類的課題である「地球環境問題」と「文明の衝突」(サミュエル・ハンチントン)の解決に対して、どんな小さなことでもよいから、何らかの貢献をしたい、との思いだ。その点、星野は世界に語りかけられるメッセージを持った作家として、その作品を通して広くメッセージを送ることで貢献することができる。
野生の知
地球環境問題と文明の衝突の解決に対する回答は、容易なものではない。が、できることもある。その一つは「MOTTAINAI(もったいない)」の思想の普及と実践。ノーベル賞を受賞したケニアの環境副大臣、ワンガリ・マータイさんが、この言葉に感激し「世界の共通語にしよう」としている。日本古来からの精神。星野が言う「百姓は百匠なり」の生活を現代社会でそのまま実践することは、まったく現実的ではないが、かつて東村をはじめ、日本全国にあった里山と一体化した循環型農業のシステム無駄なものは、何もないの精神にそって、例えば「生ゴミは堆肥にする」、「歯を磨く時に水を出しっ放しにしない」などは、だれでも実践できる。とりわけ「米粒を一つでも残すと、怒られた」経験がある世代は、こぞって「もったいない」運動に参加したいものだ。経済成長と科学技術文明による恩恵を享受しながらも、それによって失った、こうした精神については、実は星野との会話では、いつもそのベースになっている。私が、「もったいない」精神をしっかり実践しているかどうかと言えば、いささか忸怩たるものがあるが。
最近、思うことは(聖書に影響を受けた星野を書いているのにふさわしくはないかも知れないが)「山川草木悉有仏性」(さんせんそうもくしつうぶつしょう)の意識。「山にも川にも森にも木にも命がある」。この考えは仏教の根本にあるそうだが、宗教を専門に学ばなくても、仏教徒でなくても「動物にも、草木にも、自然界の森羅万象にも命が宿っている」と考えることは可能であり、そうした考えが「文明の衝突」を緩和し、回避させるのではないか、と思う。人と動植物と草木が共生する、自然と調和した暮らし。「他者」に命が宿っていると思えば、本来、人は「他者」に気を配るはずだ。自然との共生と、異なる神や価値観を持つ入々との共生は、同じ地平に存在する。「道徳では、文明の衝突の一つの現実であるテロは回避できないよ」との声が聞こえるが、ならばどうすればよいのか。
哲学者の梅原猛氏は新聞のコラム(朝日新聞平成18年1月31日付)でこう言っている。「アイヌの人々にとっては植物も人間のごとき生き物で、木の枝のことをアイヌ語では『木の手』とよぶと知里(真志保氏)はいうが、この点では日本語のほうがはるかに、植物も人間と同じように身体をもつという世界観を残している。植物は身すなわち実を人間に与え、眼すなわち芽、鼻すなわち花、歯すなわち葉をもっている」。梅原白らが言うように「一見、不可解な世界観」だが、科学技術文明万能の「文明の衝突」の時代における課題解決になんらかの手がかりになるのではないか。
そんなことを考えていたら、多摩美術大学が今年4月から「芸術人類学研究所」を創設したことを知った。人類学者の中沢新一氏が所長の同研究所は「教育やメディア、家庭環境を通して『飼いならされた動物』に近づいている人間。しかも、人間は感覚や思考が『野生』の状態で生きていたことを忘れている。その無意識の奥に潜在している感覚と思考の野生を目覚めさせ、立ち上がらせ、それに表現をあたえることのできる知性のかたちをつくり出すため芸術学と人類学を統合した芸術人類学を研究する」もので、研究所を「新しい知」(野生の知)を生み出す拠点にすると言う。
動物や植物、深層心理や無意識をキーワードにした、こうした思考が、いま、各方面から打ち上げられているのは、「地球環境問題」と「文明の衝突」の克服の営みに際して、それらが何らかの貢献ができるとの予感があるからだろう。
星野は、少年時代の自然との共生体験を土台に、一貫して草花の絵を描いてきた。星野自身は「花を描くことで、人間を描いている」という。定年のない星野は、これからも草花の絵を描き続けるだろうが、そこに込められた思いは「地球環境保全」と「文明の衝突」の克服に示唆を与えるものになりそうな気がする。いや、そうであって欲しい。同時代を生きてきて、今後も生きる友人の一人としての密かな期待だ。
(せいりゅうきよしげ/日本繊維新聞社編集主幹・星野富弘氏の友人)
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