学芸論文『詩は絵のごとく、絵は詩のごとく』

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ページ番号1003428  更新日 2024年1月5日

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小澤 基弘

はじめに
私が富弘美術館館長の聖生さんやスタッフの方々、そして星野富弘さんと知り合った最初のきっかけは、今から14年程前に私が編者の一人として出版した『絵画の教科書』(日本文教出版)であった。そのなかで私は「絵画と文学」という項を執筆していて、ウィリアム・ブレイクやジャン・コクトー、そして星野富弘さんの作例などをそこに挙げながら論じた内容を美術館スタッフが読まれたとのこと、それが星野さんの詩画作品をメイン・コレクションとした富弘美術館の詩画コンセプトを説明するのに非常に参考になったようで、美術館スタッフ総出で私が勤務する埼玉大学まで一度ご挨拶にお見えになったのであった。現在、富弘美術館主催の詩画の公募展が年一度開催されており、今年で4年目になるが、上記経緯から初回より私はコンクールの審査委員長を拝命している。たまたま私自身の制作の場が渋川市にあり、みどり市の富弘美術館とはそれなりに近しい距離にあるという土地の縁とも相まって、審査委員長という重責を引き受けた次第である。
この度、富弘美術館開館25周年を記念して「はるかなる生命の詩」展が開催されるとのこと、それに際して図録を作成したいので是非とも原稿をお願いしたいとの依頼を受けた。私の詩画に対する考え方は基本的に当時と変わっていないので、本稿ではまず先の「絵画と文学」の内容をここで再度簡潔に記したいと思う。それに続いて、星野富弘さんの詩画について、私の個人的な感想を述べさせていただくこととしたい。

1.詩は絵のごとく:ウト・ピクトゥラ・ポエシス
「ウト・ピクトゥラ・ポエシス」(Ut pictura poesis)という言葉がある。これは「詩は絵のごとく」と訳され、詩と絵との親密性を示す言葉として古くから使われてきた。もともとはホラティウスという古代ローマの詩人が『詩論』という著作の中で使った用語であり、詩と絵がその表現の差異を超えて相互に類似性をもっていることを彼はそこで論じている。ホラティウスと同時代のギリシアの哲学者プルタルコスによれば、紀元前6~5世紀に活躍したシモニデスもまた、同様に詩と絵の類似性について「絵は黙せる詩、詩は語る絵」という言葉を残しているらしい。シモニデスのこの言葉もまた、18世紀頃に至るまで詩と絵の親和性についての論拠として、西洋の様々な批評家たちに引用されてきた。
16~18世紀には、エンブレム・ブック(寓意画集)と呼ばれたまさに詩と絵が密接に関わる出版物が登場し、ジョージ・ウィザーの『A Collection of Embleme』等、当時3000点以上が出版されている。そこでは、歴史的・神話的な事件や道徳的信条あるいは自然現象などがテーマとされ、絵と詩(テクスト)とがまるでパズルのように配されて謎解きのような楽しさが盛り込まれていた。その後、こうした詩と絵の親密性をメイン・コンセプトとした作品は、たとえばウィリアム・ホガースやウィリアム・ブレイク、あるいはラファエル前派の画家ロセッティ等の作品に展開していくことになる。
私は絵の勉強に先立って英文学を学んだ経験をもつが、卒業論文でブレイクの『無垢の歌(Songs of Innocence)』と『経験の歌(Songs of Experience)』を取り上げた。ブレイクは詩人であると同時に画家でもあったので、これらの作品は、自作の詩と絵(木版画)を同一ページに配した珠玉の詩画集となっている。平易な言葉で綴られた詩、その詩の内容を具体的に描いた絵、その二つの表現が本当に姉妹のように相乗的に支えあい、高めあっている見事な例であると言えよう。私は英文学を学んだ後に絵の世界に入った人間であるから、言葉や詩への関心と絵への関心が頭の中で同居している。私のこうした特性が、現在の富弘美術館とのつながりの因となり得ていること、それは一種の必然なのかもしれない。
詩と絵の相関への関心は、同時に詩と音楽等いろいろな組み合わせで関係の範囲を広げながら、今日に至るまで展開してきている。19~20世紀には詩や文学と絵との混合のほかにも、例えばオペラやバレエのように、いわゆる諸芸術との結合の試みも盛んに行われてきている。今日の芸術表現では、異なる領域の表現の組み合わせが映像表現やコンピュータを駆使したデジタル表現の登場とも相まって、多種多様に試みられており、単に詩と絵の問題だけを考えることで要足りる時代ではなくなっている。こうしたある意味で際限のない異種表現の組み合わせの時代にあって、もう一度詩画の原点に戻り、純粋なかたちでの詩と絵との関係性を再考することは、極めて大事なことだと私は思う。その意味で、富弘美術館が主催する詩画コンクールによる詩画再考の動きは、とても貴重であると私は考えている。また素朴なかたちでの詩画を考える際に、星野富弘さんの詩画作品はまさにその原点のありようを私たちに強烈に示していると思う。ここでしばらく星野さんの作品について私見を述べたい。

2.星野富弘さんの詩画について
星野さんの詩画制作のそもそもの動機そしてその制作方法等については、もはやここで私が語る必要はないであろう。星野さんの制作動機は切迫したものであり、「生きること」とぴったりと一致している。私は画家であるから、筆を口にくわえて絵を描き文字を書くことがどれほど大変であり、自分が目指すイメージにそれらを近づけていくことが、どれほど困難を伴うか、実感をもって理解できる。自由に使える利き手をもっている私ですら、その手を通して自分の表現を理想的なイメージへと近づけていくことは十分にできていない。いわんや口だけでそれを実現するなど、私には、いや誰にもそれは神業と映るだろう。
口にくわえた筆を通して描くこと、そして詩を書き込むこと、その行為は確実に不安定さを伴う。しかしながら、不安定さは表現にとってネガティヴな要素ではない。不安定さを伴いながら、それを仕方のないこととして前向きに了解しつつ、自分のイメージ世界に表現を近づけていこうとする試行錯誤のプロセスそれ自体が、氏の表現の質を生み出していると思う。それが氏の描く、そして書く絵や文字の「味(taste)」となっているのだ。彼の表す絵も文字も、実に「いいかたち」なのである。
私たちのようにデッサン等の描写訓練をあまりにも積みすぎていると、手が自動的に動いて勝手に形を描いてしまう。手は自由に動かせるので、一番楽な動きを無意識にとってしまい、その結果、達者な絵にはなるが、いわゆるワンパターンで「味」のないかたちが現われ出てしまうのだ。だから私は、時々筆を利き手ではないほうにわざと持ち替えて、不自由な手で描くことがある。そういう時は、筆はうまく扱えないので、逆にそれが味のあるかたちを生み出すこともある、が、所詮そうした恣意的な行為は長続きしない。そこには絶対的必然性がないからである。
他方、星野さんの場合、口は手ほどに馴れることはないだろう。長年描いてきているから経験による多少の馴れはあるかもしれないが、私たちの手ほどにはそれは染み込んでいないと思う。氏が毎回口に筆をくわえて描くときは、私たちが逆利き手で描くときのような不自由さと不慣れな感じ、そして思い通りに行かないもどかしさを常に抱えながら、自分の理想とするかたちを探り出しているのだと思う。不自由さ、不慣れであること、そこからくるもどかしさ、それらは実は表現に新鮮な質を与える極めて重要な要素なのである。長年画家をやっていると手慣れで描けてしまい、方法もまた様式化していく。それは作品の堕落に直結する。イメージは予定調和的に現れ出てしまい、そこに「発見」はない。だからといってわざと不自由さを試みても、底の浅いものになる。他方、星野さんは口だけでしか描けないし書けないという絶対的不自由さとともにある。健常者の私が言うのもおこがましいが、優れた表現者たり得るための稀有な環境を氏は備えているのである。
また、彼の詩画に描かれる対象は、氏の自宅庭に咲く花々が多くを占める。庭の花々が氏のモチーフになるのも必然である。散策の折に花々を観察されるのであるが、氏の見方は私たちのそれとは異なるものだろう。気まぐれに眺めるということがないのではないか。移動も容易ではないであろうから、一度一輪の花に接したときのその対象へのまなざしと観察は、確固たる残像として脳内に残るような強度を伴うだろう。そうした観察眼、まなざしの強度が、そのまま氏の描くイメージの強度となっていると私は思う。
同時に、星野さんには「生きること」に対する深遠な内省がある。私たちには想像も及ばない質の内省だと思う。それが氏の生み出す詩の内容そのものとなる。つまり、肉体の不安定さ、不自由さに由来する絵や文字のかたちが放つ「味」と深い観察眼、そして「生」への深遠な内省に由来する詩それ自体の内容、それらが見事に一致していること、それが星野富弘さんの作品の魅力そのものとなっているのである。まさに詩画の本源がそこにはある。

おわりに
優れた詩画は、詩と絵を別々に見て、「ああ素敵な絵だなあ」「とてもすばらしい詩だ」「だからこの詩画はすばらしい」というような継時的な見方から判断されるものではないというのが、私の持論である。優れた詩画作品は瞬時にそれとわかる。たとえ詩を読まずともわかるのである。その典型が星野さんの詩画作品だと思う。私は、氏の詩画作品を見て「いい作品だなあ」と思ってから、その後に時間を置いて詩をじっくり読んでいる。「いい」と最初に感じるのは常に詩を読む前だ。コンクールでの作品審査の折もそうである。一瞬にして詩(文字)と絵が一挙に同時に目に入るのであり、その全体が生み出す画面のありようそれ自体で、すでにその作品が優れているか否かが瞬時に判断できるのである。要はそこにあらわされた絵と文字の織り成すかたち全体が「いい」からである。「味」があるのである。だから私の視線をひきつける。そういう作品は、ほぼ100%詩の内容もいい。
外に現れ出たイメージのもつ魅力、かたちのもつ魅力、それは確実に内容の魅力も伴うと私は思う。文字も絵もかたちでありイメージである。その意味では詩画とはひとつの表れなのである。そのかたち全体の表れが「よさ」を伴えば、その文字の羅列の裏側に託された内容や意味もまた「よい」はずなのである。「外」と「内」、「イメージやかたち」と「内容や意味」は一体なのだ。「よい」という単純な形容詞でしかここでは記することができないが、要するに魅力があるということである。詩画が興味深いのは、自分が一瞬感得した「よさ」を、詩を読むことで更に証してくれるという点にある。詩の内容が、自分の一瞬の審美的判断の正しさを証してくれるというわけである。それは単なる絵画作品ではありえないことであり、この点が私にとって詩画の一番の魅力と感じるところなのである。

(こざわ もとひろ/埼玉大学教育学部教授)

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