学芸論文『草花の成長を、つぶさに見よ ― 富弘さんの詩集をめくりながら』
大橋 政人
なぜ花だったかといいますと、ベッドの上で身体を横にして描いていましたから、顔の前、十センチくらいのところに、スケッチブックを壁のように立てなければならず、そうすると、どうしても見える範囲が限られ、小さな花、それも一輪しか置けなかったのです。
しかし、このことは私にとって良いことでした。小さな一つの花を、しっかりと見つめ、観察することができたのです。見なれていた花も、ただ見ていた時と、絵を描こうとして見たときは違いました。一枝の花とはいえ、じっと見ていると、山があり谷があり、林があり、底知れぬ洞窟があり、それは広大な風景でもありました。花を描く私は、その大自然の中をさまよう旅人でした。
(詩画集『速さのちがう時計』「序」より)
唐突だがイエス・キリストという人(私はクリスチャンではないので、こんな無愛想な言い方になってしまう。ゴメンナサイ)は、思っていた以上に草花の成長のことを真剣に考えていたのだなと、最近つくづくそう思う。これは私自身の花の見方が急変したという事態にもよるが、もう一つは偶然、新約聖書翻訳委員会訳の『新約聖書』(岩波書店)を読んだことにも原因がある。
同書の「はしがき」によると、同書は「過去一世紀半におよぶ歴史的・批判的釈義研究の観点から、福音書記者の原点本文になしうる限り忠実に訳出されたもの」とのこと。つまりイエス・キリストの語った言葉に最も近い聖書ということになる。
その触れ込みにつられて、あちこち読み散らかしていて「マタイ伝」6章28節のところにきてびっくりした。有名な「野の花を見よ。労することなく、紡ぎもしない」の部分の最初が「野の草花がどのように育つか、よく見つめよ」といやに具体的な表現になっていたのである。私が昔使っていた聖書は戦後、進駐軍が阿左美沼(現みどり市笠懸町にある沼)辺りで配った粗末なものだったので、そうなっていたのかもしれないが、私は「野の花を見よ」と覚え、このフレーズをイエスの気の利いたレトリックぐらいにしか考えていなかったのである。
ほかはどうかと思って「ルカ伝」を見てみると、「よく見つめよ」の部分がより強い口調の「つぶさに見よ」となっていた。たまたま書庫にあった『対談評釈・イエスの言葉/禅の言葉』(岩波書店)という本を見てみたら、さらに激しく「野の草花がどのように育つのか、学びつくせ」(訳者の記載なし)となっていた。因みに、クリスチャンの友人が調べてくれたところによると、1991年の共同訳では「注意してみなさい」となっていて、1954年の聖書協会の口語約では「野の花がどうして育っているか、考えてみるがいい」となっているとのことだった。私自身、花を見ると、これは不合理、不条理、いや奇跡(私自身は「いつのまにかの魔法」という言葉を使っている)と呼ぶほかないと呻くばかりなのだが、イエスというお人も最初からそのことに気づいていて、弟子たちにはっきりとそう語っていたのである。
冒頭引用の文章のあと、富弘さん(美術館の職員の皆さんがそう呼んでいるので私も親しみをこめて、こう呼ばせてもらう)は「マタイ伝」のその部分を引用しているが、その文章は「栄華を窮めたソロモンでさえ」から始まっていて、その前の「野に咲く花を見よ」の部分は書いてない。私としては、この部分を富弘さんがどう覚え、どう解釈していたのか少し気になるところだ。もしかして私と同じようにイエスの真意を読み流していたのではないだろうか。クリスチャンである富弘さんには考えられないことだが、もし万一そうだとしたら、それもまた面白いことだと思う。星野富弘というお人は、イエスの真意を聞く前から自分の心で理解し、それを実践し続けている稀有の天才、ということになる。
私は富弘さんの詩画集を5、6冊持っている。折にふれてページを開いているが、読む度に違う色の付箋紙を付けることにしている。そのため、私の詩画集は何色もの付箋紙でごった返している。今回は10月の初めから読み始めたので橙色の付箋紙を付けたのだが、読み終わったら橙色の付箋紙だけで十指どころか、二十指にも三十指にも余るほどになってしまった。
花の名前
花の名前を 知らない
そのことが
今朝は ばかに嬉しい
花だって たぶん
自分に付けられている
名前を
知らないで咲いている
今回読んだ中では、この詩がいちばん心に響いた。もう一篇、てっせんを描いた絵には「花は/自分の美しさを知らないから/美しいのだろうか//知っているから/美しく咲けるのだろうか」という詩が付けられていた。この二つの詩に共通するのは花の主体性を、とことん見極めようとする鋭い視線である。花を外側から見るのではなく、花の内側(内面)へもぐり込もうという富弘さんの姿勢である。花のことをよく知ろうとすれば、花そのものにならなくてはならない―そんなギリギリの花との対峙が窺える。
ねこやなぎを
割ってみた
中から
宝石が
でてくる
ような気がして
ねこやなぎを描いた別の作品には、こんな詩が付けられていた。こんな美しいものにはその源があるはずだ。その源(花の中の神サマだろうか)を見たくてしようがない。こんな詩を読むと、日本のある禅僧が詠んだ「年毎に咲くや吉野の桜花 根を割りてみよ花の在り処を」という道歌を思い出す。この道歌は仏教の「空」(くう)を説いたものとして知られているが、富弘さんのこの作品にも、その「空」(くう)の香りがしないでもない。
以上は花をモチーフにした作品だが、花の不思議さをそっくり人間の動作に移し変えたような詩もあった。
紅花の畑で
まぶしそうに
頭の上に手をかざした
あの人は
今、自分が
手を動かしたのを
知っているだろうか
この詩で富弘さんは人間という形と、その動きと、それを動かしているものを同時に見ている。この見方は科学的であると同時に十分、宗教的(本来の意味の)である。
もう一篇、レンゲツツジを描いた絵には次のような、少し長めの詩が付いていた。「いい日だ/老人が歩いていく/赤ん坊をおぶっている/足どりも/軽やかだ/右足左足/右足左足/あっ!/片足で立った/おっ!/半ひねり/すごいなぁ人が歩くって/私も前は/あんな見事な技を/こともなくまいにち/やっていたのか」。この詩では人間が歩けるということに心の底から驚き、その様子を凝視している。そんな当たり前のことに驚ける人は滅多にいない。自分が歩けないから余計に驚いているのだ―と言う人もいるかもしれないが、私にはどうしても、それだけではないように思える。人間という形と、その動きと、それを動かしているもの。三つのものの不思議な組み合わせと、その関係に(神はいま、どこにいるのか!)富弘さんが目を見張っているように見えて仕方がない。
紙面の都合でタイトルしか紹介できないが「秋の道」は先年、104歳で亡くなった詩人、まど・みちおさんの「アリ」という詩を思わせる。「いわし」は薄幸の抒情詩人・金子みすゞの「大漁」を、そして「じゃがいもの花」は白樺派の作家・武者小路実篤の絵と詩を思い出させる。武者小路実篤という作家は晩年になって突然、絵を描き出したのである。それまで絵筆など握ったことのなかった男が、ある日突然トウナスやジャガイモなどの生々しい美しさに目覚めた。人間には、そういう劇的な内面の変化が突如として起きることがあるのである。
そのほか、「エンドウさん」「野に咲く花のように」「チーュリップなんて」「寅さんみたいな」「雨ニモ負ケテ」などは小品だが、捨て難い味わいの作品。富弘さんが、こんなにもユーモアを愛する人だとは知らなかった。
特に、エンドウ豆が「エンドウです」と名乗りをあげる「エンドウさん」は、何度読んでも笑ってしまう。
最後に、どうしても取り上げなければならない一篇がある。「いのち」という詩である。
いのち
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
この詩について富弘さんは、ご自身エッセイの中で次のように語っている。「私は以前、<いのちより大切なものとは?>と聞かれた時には、こう答えていました。<その答えはこうですよ、ということは簡単だけど、きっとそれは意味のないことです。自分で苦しみながら見つけた時に、あなたにとって意味があるのです>」。神とか仏とか、ましてや国家とか言ってしまってはこの詩の意味は台無しである。ただ、「いのち」を深く見つめていくと、当たり前だと思っていた自分自身が、実はとんでもないものであったことに気がつくのである。そのことを富弘さんは「いのちより大切なもの」と言っているのだと私は勝手に解釈している。
私がこの詩を特に強調するのは、この詩が戦後の日本人の生き方への批評となっているからである。敗戦の後遺症もあってか戦後の日本は(文部省も日教組も)「いのちの大切さ」ばかり叫んできた。その結果はどうなったかと言うと、子供たちは自分の「いのち」ばかり大切に、大人は延命ばかり追い求めるようになってしまった。もともと「いのち」イコール私、私イコール自分の肉体という考え方は裏返せば「死ねばオシマイ」という思想になる。このことはニヒリズム以外の何物でもないのに誰もそのことに気づかない。戦後すぐ誰が言い出した言葉か知らないが、「いのち」について言挙げするなら「いのちを大切にしよう」ではなく「いのちを見つめてみよう」となぜ言わなかったのか。そう言っていれば人生に苦しむ人も少なく、いまより多少でも住みやすい世の中になっていただろうにと思われてならない。
富弘さんの詩画集には必ず何篇かのエッセイが挿入されている。実家は同じ農家、年齢もほぼ同じ(私が3歳上)、少年時代を過ごしたのも同じみどり市(私は笠懸村、富弘さんは東村)である私には富弘さんの書くエッセイがとても懐かしく、まるで自分のことのように感じられる。
例えば新しく買ってもらった下駄を、うれしくて座敷で履いてしまう「下駄の音」。「泣こう峠」には、子どもたちが裏山で燃し木を拾い集める話が出てくるが、わが家では昔、冬になると上神梅の山の奥まで木の葉さらいに行ったのである。そんな少年時代の思い出が鮮やかに蘇ってくる。
そんな富弘さんの東村の実家に私は一度だけ訪ねたことがある。私が桐生市役所に勤めていて、広報課で「広報きりゅう」の編集に携わっていた昭和60年の暮れのことである。翌年の同誌正月臨時号に富弘さんの絵をお借りできないかと、富弘さんと懇意の直属の上司と二人で訪ねたのである。確か富弘さんは屋敷の一角の離れのような家にお住まいだった。このとき、上司と富弘さんがどんな話をしたか全く覚えていない。ただ、帰りしな振り返ったら大きな二階建ての母屋が見えたのを覚えているが、この母屋について富弘さんは「足跡」というエッセイで詳しく書いている。
ちょうど母屋の改築中で、壊した古い材木を夜なのに燃してしまうかどうかでお父さんとお母さんが口げんかをし、その晩にお父さんが急死した。そして、翌々日の葬儀の後で、雪の畑にお父さんの足跡を見つけるという心にしみてくるようなエッセイだった。
エッセイの内容を分析すると、その日は昭和59年の3月9日のことになる。すると私が見た母屋は改築1年後だったのか、などと思い出しながら、久しぶりに引っぱり出してきた昔の「広報きりゅう」をながめたりしている。そのときの私が約30年後、富弘美術館の仕事のお手伝いをすることになるのだから、人の世の縁とは本当におかしなものだ。
因みに、そのときお借りした絵は竹を描いたもので、倒れた竹が、倒れながらも傍らの竹の雪をはらってやったという内容の詩が付けられていた。
(おおはし まさひと/詩人・絵本作家)
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