学芸論文『星野富弘さんの本と偕(とも)に30年』

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ページ番号1003429  更新日 2024年1月5日

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今村正樹

偕成社が星野富弘さんの本を初めて出版させていただいたのは今からちょうど30年前のことです。当時星野さんが開いた詩画展はすでに日本各地で話題になりつつあったころで、本に関して言えば、最初の手記『愛、深き淵より。』と詩画集『風の旅―四季抄』が立風書房(当時)から刊行され、知る人ぞ知るベストセラーとなっていたのでした。
当時私は編集の見習いをやっていたのですが、編集部長の高森三夫(みつお)さん(故人)が星野さんの本に注目して、子ども向けの手記を書いてもらおうと東村(現東町)に足繁く通っているのを同じ編集部内で見ていました。星野さんは当初子どもに向けて書く自信がないと渋っておられたように聞いていますが、高森さんの粘り強い説得によって1986年の6月に『かぎりなくやさしい花々』を刊行することができました。この手記は星野さんの読者層を、より若い人たちに広げることに一役買うことができたと思っています。
その頃星野さんは雑誌『百万人の福音』に毎月1枚詩画を連載されていて、退院後東村で生活されていた星野さんの日々の思いや生活を写すジャーナル(日記)のようになっていました。数年たつとかなりの枚数が溜まって、次の詩画集が構想されることになります。『かぎりなくやさしい花々』の編集作業中に、星野さんと高森さんの間にどのようなやり取りがあったのかは、私は高森さんから何も聞いていません。ただつぎの詩画集の可能性が見えてきたときに、「こんな編集者と詩画集を作ってみたい」と星野さんに思わせる何かがそれまでの高森さんの編集姿勢にあったようです。立風書房の編集の女性は雑誌連載に着目して2冊の本を送り出した功労者で、とても誠実で熱心な方でした。それでも高森さんと本を作ろうと決心された結果、第2詩画集の『鈴の鳴る道』が、偕成社から刊行されることになりました。
原稿が手元に入ってからは、高森さんの獅子奮迅の編集作業はすごかった。1980年代と言えば印刷では今のような電子化の兆しはまだほとんど現れておらず、わずかに文字組みが電算写植化していた程度でした。原稿に赤字を入れて印刷所に入稿するのもコンピュータではなくすべて手作業です。そのうえ装幀や文字組みなどのページデザインを担当してくださった杉浦範茂(はんも)さんも名うての職人気質デザイナーで、写植文字原稿をカッターでミリ単位以下に切り刻んで台紙に張り込んでいく、手間暇のかかる作業を黙々とされるかたです。その杉浦さんを相方に原稿入手から多分1か月かからず本を作り上げてしまった剛腕ぶりにはただただ驚嘆するばかりでした。ひとつ困ったのはその後しばらく星野さんが、本というものはそれくらい短い時間でできるのだと思ってしまわれたことでした。
『鈴の鳴る道』は、待たれていた星野さんの第2詩画集としてベスト&ロングセラーとなり、30年たった現在累計で200万部の発行部数を数えています。星野さんが1979年に病院を退院されて、ご家族や東村の自然に囲まれて営まれ始めた生活の日々と思索が詩画とエッセイで綴られています。『風の旅』で書かれた生死をさまよう切迫した状況、あるいは癒えることのない障害を受けたことへの絶望とその克服といった劇的な場面はここには出てきません。そのことで、「やはり『風の旅』のほうが感動的でよかった」といった読者の声を聞くこともありました。しかし私はこの2冊がもたらす感動は全くちがうものであると考えています。『鈴の鳴る道』は、決して完治することのない障害を引き受け、困難な生を困難なままに生きていこうという星野さんの静かな決意を強く湛えています。本のタイトルともなったエッセイは、「整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることのない鈴」を自らの中に意識し、「私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もう」と結んでいます。『鈴の鳴る道』は、キリスト教の洗礼を受け奥様の昌子さんと結婚されたのちの、新しい生活の記念碑でもあると私は思うのです。
その後私は運転をしない高森さんの編集助手兼運転手として、東村の星野さん宅をたびたび訪れることになります。最初のころは本当に緊張しました。星野さんは打ち解けた場ではよく話され有名なダジャレも飛ばされます。いっぽう打ち合わせの時にはしばし考えるままにじっと押し黙ってしまわれることがあります。この時の緊張がすごくて、私はまるで潜水する時のように息を止めて、星野さんがようやく口を利かれると、ふーっと大きく息を吐き出す、そんな感じでした。それでも何度も足を運んでお話をしているうちに、仕事のなかにも自然と打ち解けた会話ができるようになっていきました。
星野さんのお宅を訪問する際の一番の楽しみは、星野さんとともに出かける午後の散歩で、外の風景のお好きな星野さんは毎日の近所歩きを欠かさず、新里村(現新里町)に移られた後もよほどひどい暑さや雨でない限り出かけられています。私たちはその日課に便乗するわけですが、天気の良い日など玄関の扉を開けるとそこにもう完全装備をした星野さんが電動車椅子に座って待ち構えておられたこともありました。東村の散歩の素晴らしさは何と言っても『鈴の鳴る道』に描かれた自然の風物にじかに触れられることで、星野さんの直々の説明を受けながら草花に接するひと時は贅沢な時間でした。全国各地で開催される詩画展とは別に、作品をその生まれた土地の自然の中で見てもらいたいという思いが、いつしか星野さんのなかに生まれて、それが富弘美術館の誕生に結びついたのではないでしょうか。
その後偕成社では、『速さのちがう時計』(1992年)『あなたの手のひら』(1999年)『花よりも小さく』(2003年)『種蒔きもせず』(2010年)と4冊の詩画集を刊行させていただいています。このうち『速さのちがう時計』だけは新聞に連載された詩画を収録したモノクロームの詩画集ですが、そのほかのものは主として『百万人の福音』に連載された詩画から選んで構成している点で最初の『鈴の鳴る道』の続編と言えます。この間ベテラン編集者の高森さんは定年で社を去られ、詩画集の担当編集者も2回代わりました。私は編集者のおまけとして折に触れて星野さんを訪問、多くの訪問者の皆さんと同じように日課の散歩のお供をします。場所は東村から新里町に変わりましたが、星野さんの自然を見る眼の確かさ優しさは変わらないと感じます。しかも散歩中の話題は自然にとどまらず、高台の眼下に広がる古墳群から縄文の遺跡にまで及ぶこともあり、その関心の幅広さにはいつも感心させられるのです。
私が出版の仕事に関わるようになってから30年余、星野さんとのお仕事の期間とほぼ重なります。当時十分に若々しさを残した壮年の星野さんが、今年古稀を迎えられるというのは信じられない気がしますが、そういう若いつもりの私もすでに還暦をいくつか過ぎました。同じくらいの年数をお付き合いしている作家の方は何人もおられますが、同じスタイルで続けられる仕事を、30年間本にまとめながら拝見し続けてきたのは星野さんだけと言えます。それは過酷な肉体的試練を受けた一人の若者が、その運命を正面から受けとめ人一倍鋭い感性と深い思索によって、ゆっくりと成熟していく過程を見続けた時間でもありました。星野さんの詩画集を年代順に読むことで、その思いの深まりを読者の方々にも感得していただけると思います。
星野さんを本当に理解するには、多分キリスト教の信仰について語ることが不可欠であると思います。私は星野さんと信仰について深い会話をかわした経験はありませんが、私なりに星野さんの信仰を理解するのに大切であると思っている詩画が、初期の『鈴の鳴る道』にあります。それは「秋のアジサイ」という題の詩画です。

一日は白い紙
消えないインクで
文字を書く
あせない絵の具で
色をぬる
太く、細く
時にはふるえながら
一日に一枚
神様がめくる
白い紙に
今日という日を綴る

これは「神様がめくる白い紙―運命」を受け容れた人の信仰の告白だと思います。しかし同時に、その紙に文字を記すのはだれでもない自分である、そこに何を記すかが、自分の生きていく意味である、という静かな、しかし強い意志の表明であると私は受け止めてきました。星野さんの信仰は、その出発から単に救いを求めるためのものではなかった。いま再生の出発点である『鈴の鳴る道』をあらためて開いてみてそのことを感じます。そして伺うたびに感じられた奥様昌子さんの細やかな心遣い、献身、ともに抱く信仰がその支えとなっていたことを思うのです。
星野さんの詩画はひとつひとつ独立したものですから、主題として様々なくくり方ができます。それは多分美術館の展示のテーマとなるべきものなのでしょう。私はたまたま詩画が描かれる年代を追って本をまとめる現場にいたので、時間軸のなかでの人間的変化・成長を目の当たりにして心を惹かれたのです。それは仕事とはいえ本当に幸福な経験でした。願わくばこの時間がさらに長く続いて、多くの詩画作品を生み出していきますように。星野富弘さん、昌子さんの末永いご健康をお祈りします。

(いまむら まさき/偕成社社長)

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