戦後80年 私の戦争の記憶
戦争体験記のご紹介
1945年8月15日に太平洋戦争が終結してから、令和7年で80年を迎えます。
みどり市でも、当時の新田郡笠懸村・山田郡大間々町・勢多郡東村ともに、召集によって戦地に赴き命を落とした戦没者が多くいます。また、笠懸村久宮地区と鹿の川地区にかけて桐生愛国飛行場が存在し、終戦の直前にアメリカ軍の爆撃機による空襲を受けるなど、先の大戦は人々の暮らしや心に大きな傷跡を残しました。
戦争を経験した世代が減っていく中で、その貴重な体験を後世に語り継ぎ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代に伝えていくため、市内在住の戦没者遺族の皆さんから寄せられた戦争体験記を紹介します。
父の思い出(大間々・磯田𠀋男さん)
父は、昭和7年6月1日に現役兵として歩兵第75連隊に入隊しました(昭和8年11月30日に除隊)。また、昭和16年7月15日に臨時召集、第53連隊に入隊しました(昭和18年3月21日に召集解除)。
そして、昭和19年8月5日秘密動員として召集を受けて出征して行く時、父は浴衣を着て、下駄履きで、その辺りの町へ遊びに行くような身支度をして、母親と長男の私のたった二人に見送られ、足尾線上神梅駅より出征して行った事を記憶しています。
その後、東部第38部隊に召集され、昭和19年9月12日に水戸歩兵、第102連隊補充隊に編入。昭和20年3月23日に比島ルソン島にて激戦に参加し、戦死しました。享年35。
悲惨な戦争は二度と起こしてはいけない。戦争は不幸な家庭を作るだけです。
戦後80年の節目に願う事(笠懸・赤石道子さん)
私の父は、北千島にて戦死したと聞いています。北千島への慰霊巡拝は叶わなかったため、遺族の会主催の戦没者遺族援護事業での参拝は、亡き父に会えたような気持ちにさせてくれる大切な場所となっています。関係者の皆様に心より感謝申し上げます。
昨今、世界各地での紛争を目にし、多くの民間の人々が苦しむ姿を見ると、夫を亡くし、大変な状況の中、幼い私を育ててくれた母の姿と重なり、胸が締め付けられる気持ちになります。
戦後80年の節目にあたり、もう一度平和の尊さ、生命の尊さを心に刻み、日本の平和と世界の平和を願いたいと思います。
終戦 その不条理の時(大間々・中島正夫さん)
昭和21年4月19日、父・一の命日です。母の歌集「木漏れ日」に父の遅きに失する戦死通知の前での母の悲痛な姿、慟哭する姿、こんな不条理な事があっていいのかと、歌の一つ一つから涙が浮かび止まりません。
「花の頃はかならず来むと待ちわびし その花の日に君は逝きにし」
終戦の日20年8月15日から8ヶ月たった時です。なぜ8ヶ月後なのか。無象に過ぎた期待、どうしたらいいのか。
「敗戦のそのたまゆらも君還る よろこびをもておほひしものを」
「いたつきの身をたどり来し上海に 船待ちかねて逝きし君はも」
父は病床で奥地から上海の地まで母の元へと手を一杯伸ばし懸命に頑張った、母の長き8ヶ月間、再会の知らせに胸ふくらませている姿、この時間は残酷です。そして父の戦死報告は不条理の極りです。
「手を合す夫の遺影の若きまま 今日五十回忌の法要をなす」
母80才、父の五十回忌を済ませ、文箱の奥からやっと、写真を床間に飾ること出来た時です。私は、この時をふり返ると、何時もこの終戦の不条理の時に涙します。もしこの時が1年、いや半年、3ヶ月前であったらと、残念極まりないです。ルーズベルト、スターリン、チャーチル、欲にまみれたリーダー達が、新世界地図を書き変える前に終戦を迎える事が出来ればと思いめぐらせます。桃の花が咲く頃です。毎年母が仏壇に花を供えるたび、父の無念、終戦の不条理に思いめぐらすのは何時もその事です。
「真実を知らされずして「侵略」の 言葉を戦死せし夫はなげくや」
不条理の時を過去のものと大事に胸にしまい、平和な時代を大事に過ごして80年。もっと平和な日本へと努力を惜しみません。
母はもしも、もしも夢が叶えられたらと胸の奥にしまいながら、95才にして天国へ旅立ちました。
「一点を見つめてしばし空虚なる 視野につがいの蝶の舞いつつ」
父が眠るフィリピン島(笠懸・本間岑太郎さん)
父はフィリピンで戦死、私が1歳の時でした。父の顔は写真だけ、父は子供の顔が一目見たいと言い、出征したそうです。小学生の頃から、フィリピン島はどこにあるのか、どんな島なのか、地図を見ながら捜しました。
一度はフィリピン島へ行きたいと数年間思い、願いが叶い、行くことになりました。平成18年11月11日から28日の8日間の日程で、戦没者遺児による日本遺族会慰霊友好親善訪問団に、遺児として参加しました。父が眠るフィリピン・ルソン島カガヤン州クマオ上流部ドモン部落で、父は昭和20年7月28日、28歳で戦死しました。
ドモン川に流れる橋を渡り、橋の空き地に祭壇を準備しました。長かった人生で、祭壇の写真を見ながら、追悼文で報告、初めて父さんと呼ぶことができました。62歳、母86歳。妻、子供たちも元気で楽しく過ごしていることも報告ができました。
大戦時の世相(大間々・野村年穂さん)
先の大戦、その時小生は小学校2年生、暮れも迫った12月に戦争勃発。同6年生の夏に終戦を迎えるという大戦の始終を体験した小学生時代でした。
振り返って、戦後80年、子どもの頃の事とて記憶も忘却の彼方にと、加えて高齢による記憶力の衰えから体験談を綴るには躊躇するばかりですが、断片的な体験記憶を紡ぎながら綴ってみたいと思います。
戦前から軍国主義一辺倒の様相は、戦時になって増々その傾向が強まり、一般国民にもその思想を強く求められたものです。大戦を勝ちぬくため国民一丸となって対峙、「国民総動員」「一億一心」「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」「鬼畜米英」等のスローガンを下に、国民一丸となって戦勝を目指していたものです。
しかし、当初優勢だった戦況も年を追う毎に劣勢となり、無念の終末を迎える事になるのです。昭和20年3月の東京大空襲で、いよいよ大戦は国内にも及んで来た事を実感させられた時でもありました。この辺りでも大型爆撃機B29が編隊を組んで上空高く飛来し、また、グラマンと呼ぶ小型戦闘機がかなりの低空飛行で機銃掃射の音を聞いた時には、驚きと恐怖を覚えながら防空壕に避難したものです。
終戦前後の混乱期の学校生活では、軍国主義の徹底から教育現場でも厳しいものがあり、教育熱心だった小学高学年担任の先生も、今では考えられない程の体罰が日常的でした。しかし不思議な事に、先生に対する憎しみ、怨みを覚えませんでした。教科書はといえば、先輩の使用したもの借用したり、新しいのが配布されたかと思うと、大判の紙にただ印刷されただけのを自分で鋏を入れ、教科書風に綴じた事もありました。校舎も平時と違い、敵の空襲被害を避けるためだったのか、国内の軍部隊を分散、各地の校舎に駐留するようになり、「学舎」が「兵舎」に変わってしまったのです。立ち退きを余儀なくされた学童は、身近な神社の社務所や境内で不自由な勉学を強いられたものです。そんな教育環境も、終戦を境に教育方針も手の平を返すようにガラリと変わり、先生も生徒も戸惑うばかりでした。
多くの若い人達は、日の丸の旗に見送られて戦地に赴き、「お国のため」に若くして尊い命を捧げました。私事ながら、小生の長兄も志願して海軍に入隊、戦火激しくなったフィリピンの海で戦死、21才の若さで黄泉へ旅立ちました。平時を知らない兄は未だ異国の海で眠ったまま、今どんな夢を見ているのでしょうか。突然的に我が子を失った両親は、悲嘆に暮れた様子はなかった様な気がします。むしろ悲しみは心の内に秘めて、「お国のため」に戦って命を捧げた我が家の名誉、誇りに思っていたのかも知れません。また、世相もそうした事が当たり前という雰囲気でもありました。
いくつかの断片的な体験談を記しましたが、前記のスローガンの下に一億一心一丸となって戦勝を悲願、忍耐と我慢を重ねて邁進しました。その道程は筆舌に尽くし難いほど、国も民も辛苦を嘗めました。しかし、その願いも空しく、無念の玉音放送を耳にする事になったのです。この放送に皇居前広場には多くの人々が座して頭を地につけ無念の涙する姿は、一般国民の万感胸に迫る思いを象徴する姿でもありました。そして、それは後の戦争忌避気運への道筋第一歩でもありました。
大戦後80年、戦争忌避の気運も高まっている今日、今なお国連の決め事にも無視・逆らうかのように、自国自身に都合のいい正義を掲げて戦争を仕掛けている為政者。世界的な批判を浴びても争いを緩める様子もなく、世界は嘆息するばかり。為政者の寛容な精神への翻意を促す術はないのか、それを願うばかりです。
戦争と家族(笠懸・女井重男さん)
女井家からは戦死者が2人出ています。
私の叔父・女井丈次は、昭和15年10月に5日ほど病気療養中のところ、休暇で帰宅し、帰宅後12月10日、中華民国江西省安義第三十三師団第一野戦病院で死去しました。
私の兄・女井芳男は、入隊前には青年団の役員として活動し、余暇には父親と自転車で赤堀の本間道場へ剣道の練習に行っていたのが目に浮かびます。昭和19年6月24日、ビルマ国テイデムにおいて戦死しました。
女井家においては、戦前には水田・畑・山林の保有が地域一番と言われていましたが、前記二者を失ったことにより、残ったのは老人・女性・子供・更に病弱者で労働力がなくなり、生活にも影響するようになりました。
近年の世界情勢を見ても常に争いごとが起きており、決して気持ちを緩めることなく、どのように進めば良いのか慎重に検討していくことが肝要と考えます。
美しい海(大間々・石川正子さん)
父・石川楠は、明治44年1月18日出生、伊勢崎中入学も、父の死により中途退学して、金物店へ住み込みで修業に入りました。自分の店を持つことを夢に努力し、昭和10年代に良い大家さんに恵まれ、夢が叶いました。平成3年に亡くなった母と結婚し、3人の娘にも恵まれました。
商売を頑張っているなか、母と、4才8ヶ月の今は亡き姉と、2才9ヶ月の私、生後100日の妹を残し、昭和17年11月27日に、赤紙1枚で宇都宮の部隊へ入隊しました。
昭和19年12月31日 ペリリュー島にて玉砕
昭和20年8月1日 公報
昭和20年10月10日 町葬
父から母への昭和19年1月20日付の軍事郵便の葉書に、「正子も幼稚園に出して下さい、お願いいたします」の文があり、通わせてもらった思い出があります。
母はなりふりかまわず、生きることに精一杯で、休む日とて1日もなく、働いていてくれたようでした。
私が小学生の時、クラスメイトが、「『石川さんの側へ行くと貧乏が移らないか』と心配して聞いた人がいるので、私が『貧乏は病気でないので移らないよ』と言った」と聞かせてくれました。多分、その話を聞いていた私は、泣き出さんばかりの笑顔だったに違いありません。今もって忘れることのない一こまです。
私は奨学金のおかげで、高卒後、東武の旅行社へ勤めました。石川姓を就いで母を大切に思う夫との間に、長男、長女に恵まれました。昭和40年より手伝ってきた店を、私の体調不良のため、平成29年77才で閉店しました。亡き父にお詫び方々報告してまいりました。
昭和62年群馬県遺族の会第一回海外戦没者慰霊巡拝団の一員として、初めてペリリュー島を訪島いたしました。パラオ松島と呼ばれるほどの無数に散らばる緑豊かな島々からなるロックアイランドに、全員目が釘付けになりました。この美しい島で戦争が行われたとは、現在のレジャーを中心に観光で訪れている方々には、想像もつかないことでしょう。
お亡くなりになられた方々の御冥福を、心より深く深くお祈り申し上げます。
追悼文(大間々・星野隆さん)
父は、私がまだ母親の胎内にいる昭和18年の春出征です。きっと母と生まれてくる私を心配しつつ、不平を言うことも出来ず、誰を怨むことなく、国のためと思い、命を捧げたのでしょう。当初は満州へ赴き、それから沖縄へ転戦し、昭和20年5月15日、松川にて戦死と戸籍には記してあります。民間の人達を巻き込んだ激戦の地であったことは、記録誌等で知りました。
父親が戦死したことで母子家庭になり、弱い所には色々な攻撃が加わり、結果は母と私は4才で別れ、母親は実家に戻り、私は叔父に引き取られました。思い起こせば両親がいなくなり悲しんでいる間もありませんが、学級の中でも、近所の遊び仲間にも、父親がいない、まして戦争遺児は、私の他にいませんでした。なんと不運かと思いました。今で言ういじめらしきものにあいました。もし最初の赴任地の満州で助かっていたならば、普通の生活が送れたのではないかと思っていた時期もありました。
父は、たばこや酒を好むことなく、楽器とスキーを趣味としていたようです。私が物心ついた時にまだアコーディオン、バイオリンとピアノがあり、スキーの道具もありました。戦地では、きっと母や私に楽器の演奏を聞かせて楽しんでいる夢を、何回となく見たことでしょう。
私は、叔父、叔母の世話を受け、高校も卒業し、証券会社へ就職しました。26才で良き伴侶を得て、子供2人にも恵まれ、また多くの知人、友人に支えられ、幸せです。
父上の犠牲の元、今の日本の繁栄があります。また恒久平和は絶対守っていかなくてはなりません。どうか天国から何時までも見守っていてください。どうぞ安らかにお眠りください。
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